昭和初期クーデター研究相沢事件


これらの研究は、シマヘビsan19歳のときにさまざまな文献を参考として独自で作成したものです。引用はありますが、基本的に自分のコトバで書いています。間違いを発見した方は、その旨をトップページからメールにてお知らせ下さい。また、リンクを貼りたい方もメールで連絡お願いします。勝手な引用は差し控えてくださるとありがたいです。


〔相沢中佐の経歴〕

相沢中佐…明治22.9/9福島県白河町生まれ。本籍は仙台市東六番町。事件当時45

・父・兵之助…裁判所の書記を務めたのち、公証人。元仙台藩士。明治維新で官軍に抗したことを終生悔いる

・母・まき子…仙台藩士羽田善助の娘

…仙台陸軍地方幼年学校陸軍士官学校と、皇室崇拝の厳格な精神教育を受ける。明治43年、仙台歩兵29連隊に配属される。同連隊中隊長だった東久邇稔彦王の中隊付となり、以後長く寵愛を受ける。曹洞宗の名刹・輪王寺福定無外和尚を師とし、2年間宿泊して禅の修業に励む。大正76月、中尉として台湾歩兵一連隊へ転勤となる。陸大を受験させるため、あわただしい内地を離れるよう先輩が便宜を図ったもの。しかし地位や権勢に慾がなく受験にも興味なし。23ヶ月台湾にいる間、父が亡くなり、内地へ帰った機会に米子婦人と結婚(30歳の時。婦人の母はいとこ。婦人は12歳も年下。神戸の湊川神社にお詣りするだけという型破りの結婚式)。台湾から戻ると陸軍戸山学校士官学校付を経て大正158月、熊本の歩兵十三連隊中隊長、昭和27月、少佐となり、東京の歩兵一連隊付となる。昭和65月、青森の五連隊大隊長として赴任、大岸頼好中尉と知り合い国家革新思想の影響を強く受ける。この頃からいわゆる「一部将校」として憲兵からマークされる。昭和78月、秋田の十七連隊付、昭和88月、中佐として福山の四十一連隊付。昭和8年暮、連隊長邸の忘年会で酔っ払い、鼓膜が破れ、正月に上京する途中に中耳炎で発熱・手術。さらに丹毒に罹り、危篤に。5ヶ月も信濃町慶応病院に。

 

*正月休みにもかかわらず上京した理由(当時陸大の学生だった村中孝次大尉の書簡)

…維新改造ノ断行ハ須要緊急ノ国家要請デ維新遂行ハ結局スル所全国青年部位ノ熱血的努力ニヨリテノミ期待シ得ルト思ヒマス/此努力ハ尚極メテ不十分デアルコトガ痛切ニ感ゼラレマスノデ此際更ニ東京同士ガ熱火ヲ以テ自ラ焼キ焦スト共ニ地方同士トモ一層緊密ニ連繋シテ進ミ度イト思ヒマス/此意味デ至急ニ御相談致シ度イト思ヒマスノデ中国筋カラ誰カ差向ケテ戴ケタラ幸甚ト思ヒマス…

血盟団事件五・一五事件の判決、11/13救国埼玉青年挺身隊事件の検挙

              …国家革新運動も緊張を加える

・旅費は自前

・しばしば中佐は東京や地方から訪ねて来る青年将校の旅費や小遣いの面倒までみる

              …「青年将校は国の宝だ

)上官からの圧迫は厳しい…esp. 連隊長の樋口季一郎大佐(統制派

                   …主張を押し通す中佐は終始苛められる

昭和10.7/19真崎教育総監罷免直後)

急遽上京して永田軍務局長に直に辞職を勧める→1ヵ月後再上京、斬撃に

 

陸相、1935.8月の陸軍の定期人事大異動で皇道派の一掃を図る

 →7/10真崎教育総監に図る

        ↪はねつける…「(は)不逞の奴なり。予は之は大義名分の問題故斃る迄争ふと断言せり

  ⇔真崎、罷免

   →皇道派青年将校、猛然と統制派攻撃

    …士官学校事件で免官された村中磯部らが中心となり、『軍閥重臣閥の大逆不逞』などの怪文書を全軍にばら撒き、永田統制派を槍玉に挙げ、彼らの「反動革命」に抗する総決起を呼び掛け

 

士官学校事件1934.8辻政信大尉(のちノモンハン戦ガダルカナル戦参謀として有名になる)が陸軍士官学校の生徒隊中隊長に就任。は腹心の士官候補生をスパイに使い、陸軍大学校在学中で士官候補生に影響を及ぼしていた皇道派青年将校の一人、村中孝次大尉のもとに出入りさせ、11/18皇道派のクーデター計画(27日に召集される第66臨時議会の前後に、皇道派青年将校が部隊を率いて政府要人・元老・重臣らと警視庁を襲撃するというもの)を探り出した。はこの情報を憲兵司令部の塚本誠大尉及び先輩の片倉衷少佐に注進。片倉は憲兵司令部に連絡する一方、塚本とともに20日早暁、橋本虎之助陸軍次官を訪問し事件を報告。その結果、村中磯部浅一一等主計(野砲兵第一連隊)らが緊急逮捕される。第一師団の軍法会議は1935.3月、この事件は証拠不十分として不起訴処分とするが、村中磯部ら3人は停職。

  ↓

・歩兵第四十一連隊(福山)の相沢三郎中佐、村中らの呼び掛けに真っ先に応える

  …人事異動で台湾に赴任することになった相沢8/11上京、西田税の家に一泊し12日朝に陸軍省に赴き、軍務局長室で執務中の永田をいきなり軍刀で斬りつけ、逃げようとしたのを背後から突き、止めを刺して殺害。動機を後の公判廷で「(怪文書を読んで)永田局長閣下は悪魔の総司令部であると思ひ、大逆の枢軸を殲滅して昭和維新の大業を翼賛し奉らうと思ったのであります」と陳述。相沢は駆けつけた憲兵により憲兵隊へ連行されたが、犯行という意識がまるでなく、その足で台湾へ行くつもりであり、自分に伊勢の大神が乗り移って天誅を下したのだなどと言い、憲兵をてこずらせる。

 

〔斬殺の動機〕

 

{衛戍刑務所の接見で参謀本部作戦課長石原莞爾大佐(中佐の最も信頼していた先輩)に述べた言葉}

然るに、永田閣下は、軍務局長に就任以来、維新の実行をやられては困る所の立場にある、即ち財閥、元老、重臣、政党、新官僚等と結託し、軍内外の維新勢力を抑圧した。…即ち軍統制の美名に隠れて昨年十一月村中大尉問題の如く、何等の罪なくして誣告、弾圧せられ、その他全軍各地多数の青年将校は罪なくして処分を受けた

国体明徴精神の徹底を、全軍に訓示した全教育総監の引き摺り下ろし運動が、斯くして露骨急激に進展して、其の結果は遂に三官衙長官の協議不纏まりとなり、大臣は勅定事項を蹂躙して単独上奏により総監更迭を為すに立至った。統帥権の干犯である

偶々私は、突如として台湾に赴任を命ぜられた。我去るの後、この陸軍の崩壊し行く有様を傍見しながら台湾へ赴任することは、あの場合私としては陛下に申訳がないと考えた。赴任に先立って此の崩れつつある陸軍の危機を救うことは、神の御意思であると思った

 

*同志的つながりをもつ西田税大蔵栄一大尉らには、決行の前夜語り合いながらも遂に打ち明けなかった

 

麹町憲兵分隊での言動(小坂憲兵曹長)}

相沢中佐は、すさまじい形相となって、怒鳴りつけるように『俺の言動は、明治大帝の御遺訓に添い奉り、皇軍軍紀の振作にあるのだ、永田を殪さねば、天皇の軍隊は一体どうなる。正義に基づく行動は法律を超越する、陸軍大臣か憲兵司令官に直接話せば解ることなのだ…』

 

〔相沢の性格〕

 

{中佐が尊敬していた大岸頼好大尉と推察される、匿名の「回想記」}

かの五・一五事件の直前確か三月頃であったと思ふ。東京のある隊で海軍側の古賀中村両中尉と会った時、尊い士官候補生は連れて行ってはいけません。年寄りから順番ですよと言って注意したといふ事である。/之は古賀中村の容れるところならず遂にあんなになって了ッた。丁度十五日には自宅で入浴中であったと言ふことであるが、夫人がラヂオで事件が放送されつつあることを告げると、真裸で飛び出してしづくも拭はず畳の上に坐り込んで濡れ手拭で涙の伝ふ顔を蔽ふて居たが、こうしては居られぬとその侭軍服を着、取るものも取り敢ず上京の途に就いたが、途中盛岡駅で憲兵に阻止されて止むなく引き返した

平素は非常に物静かで腰の低い人であった。後輩であろうが町の人であろうが腰を九十度に曲げて応対する人で、言葉も非常に物柔かであるし、喜怒の変化は全く表面に表われぬ人であった。ある曹長が雪道で横合いから出てきた中佐に道を譲られて真赤になったという逸話もある。

→ 一般に「変り者」と呼ばれる範疇の性格…性格的な異常と見るのが妥当

 

〔相沢の精神状態〕 …精神異常では?脳梅毒患者?

 

麹町憲兵分隊に収容された中佐を直に調べた小坂慶助憲兵曹長の著書

『何ッ!軍法会議?俺は軍法会議などに送られるような事はしていない。俺の行動は正しい。憲兵にこうして調べられる事が、既に間違っている。…』/これが分別盛りの中佐の階級にある人の言葉とは思えない。精神に異常があると思った。

 

東京憲兵隊の特高課長だった福本亀治

誰にともなく、『俺は今から直ぐに台湾に赴任しなきゃならん』と、何度も云っては額から流れる汗をぬぐおうともせず、強い陽差の表の空を見上げていた。この相沢中佐に就いては変質者であるとか、一種の精神病者とも云われたが、結局は前者の方ではなかったかとも思う

 

〔中佐の処刑〕

 

*処刑前日、衛戍刑務所を訪れた米子夫人に「たいへん苦労をかけた。間もなく家に帰り、お前たちと一所に住むことができるから嬉しい…」と語る

←頭がおかしい? 少年時代からの禅の修行や獄中での解脱した心境を思えば自然?

 …{中佐が心の師とした福定無外和尚}

  「今度のことは止まれぬ精神の発露であると思ふ。単身根源を切って軍の清純を期せんとするものであって、初めから身を捨てている。自己の前途、立身出世のみを望む現在の大部分の人間には解し難い行為であるかも知れぬが、相沢の今度の行為はわしにはよく判る。決して狂心ではない

 

*処刑当日…早朝時に起床、観音経を読誦し、「尊皇絶対」などの絶筆をしたためたが、余裕綽々態度。「限りなき恵みの庭に使いして今たちかえる神のみそばに」(菅原弁護人に贈った一首)

 

*執行の様子 {塚本刑務所長の「遺稿}

昭和一二年七月三日午前四時四十八分、相沢を出房させたのだが、房前二十余突の廊下を、言渡所に控へていた私を見かけ、附添の看守長の指図も余所に、にこにこ微笑を含んで丁寧に謝辞を述べ、傍の検察官に黙礼し、進んで執行を要求するような落ち着き払った態度であった。/それより医官の健康診断を行い、次に執行言渡しをなしたのである。遺書の始末や、領置物品の処置や、申し残すことの有無などを訊ねたが、前夜より用意周到に死後一切のことを処理してあることとて『何もありません、色々お世話になりました。お蔭で健康でありました。皆様によろしく。刑場へ行く途中で遥拝をさして頂きます』とのことで遥拝所へ護送した。/大声で『天皇陛下万歳』を三唱した。…/…相沢は『目隠しはやらないで下さい。武人の汚れだから』と拒絶する。規則だからと言へば『私に限りその必要はありません』『それでは射手が困りますから』といへば『射手が困る、それではやりましょう』と柔順に目隠しをなし、/『私は外に出るのだと思っていましたが、この中でやるのですか』といって悠々刑架に就き、平然として少量の水を呑み、執行を受けたのである

 

〔相沢事件の波紋〕

 

9/5 部内規律弛緩の責任を負ってが陸相辞任 → 後任:川島義之

(優柔不断。ただ「中立的」というだけで大臣に)

相沢事件後の対策を遅らせ、二・二六事件誘発

(探知された二・二六計画を止めるために村中磯部を留学させようとしたり危険分子に尾行をつけたりしたが、弾圧は出来なかった)

 

相沢事件…青年将校を大いに奮い立たせる(相沢:世間的には狂人、青年将校にとっては偉大な義人・先覚者)

相沢の公判に際し、法廷闘争を展開し、統制派の「陰謀」を徹底的に暴露する戦術に出る

↓ 

・昭和11.1/8皇道派満井佐吉中佐が弁護人の一人に

…裁判の引き伸ばし+統制派の攻撃

前陸相や真崎も証人として喚問される(二・二六事件前日)

…次第に永田は悪逆無道で相沢は愛国者だという雰囲気に

 

二・二六計画…昭和10.8~9月頃立てられる

→昭和11.1月に入って熟してくる(相沢公判の時期)

2月初めには具体案がほぼ固まる

   =相沢事件で盛り上がった雰囲気を利用して一挙にことを挙げ、統制派を追い落とし、「維新」を達成しようというもの

 

※「2月末決行」と決まったウラ

…昭和10.12月に陸軍省から第一師団の満州派遣が発表されたこと

(青年将校の多くはここの所属)

(青年将校はこの発表を、自分たちを満州に追い遣るための画策と取り、満州にやられてはもう事を挙げられないので決行を急ぐ)

 →最終的に、決行は2/22に決まる

 

磯部ら…陸軍首脳部連中に会い、それとなく色々と打診

・昭和11.1月中旬 安藤ら、山下奉文少将(陸軍調査部長)訪問

山下士官学校事件永田らの処置を非難し、「岡田首相なんかぶった斬るんだ」と放言

・昭和11.1月下旬 磯部川島陸相訪問

川島は「何事か事件が起こっても仕方ない、その場合も自分たちは青年将校を弾圧しない」という態度を匂わせた

―→青年将校、自分たちが起てば首脳部は付いてくれるという自信をつけてしまう

         esp.  真崎1/28磯部相沢公判の援助資金を貰いに行くと、金を出し、「何事か起こるなら何も言ってくれるな」と思わせぶりなことを言う

真崎の煽動をうかがわせるものあり

〔事件後の動向〕

 

陸相、事件の処理を一応済ませると、軍務局長が陸軍省内で白昼将校に斬殺されるというこの未曾有のショッキングな事件の責任をとり、9/5に辞任

   →比較的派閥色の薄い川島義之大将が後任に

 

皇道派青年将校は先輩の相沢の決起に強い衝撃を受け、なんとしても“昭和維新”を断行しなければならないと闘志を燃やす

 …永田が倒れが退いたため、渡辺教育総監に攻撃を集中。さらに、国体明徴運動がちょうど激化していた最中に渡辺天皇機関説でも構わぬという趣旨を講演で述べたので、皇道派はますます憤怒を募らせる。

 

相沢10/11、予備役に編入される。11/2殺人・持兇器上官暴行傷害罪で起訴される。1936.1/28から第一師団軍法会議の公判開始

     …西田・村中・磯部らは公判闘争を通じて統制派に打撃を加えようと図り、特別弁護人に皇道派系の満井佐吉中佐(陸大教官)、弁護人に法曹界の重鎮・鵜沢総明(貴族院議員)をたて、法廷外では直心道場などとともに減刑運動を展開。しかも軍法会議判士長の佐藤正三郎少将、判士の小藤恵大佐らも皇道派に近い

       →軍法会議は皇道派のペースで進行し、真崎ら陸軍首脳が証人として続々喚問され、さらに斎藤実内大臣(1935.12/26就任)らまで証人に申請される状況に

 

・他方、陸軍局は1935.12/2付で柳川第一師団長を台湾軍司令官に転出させるとともに、皇道派青年将校の最大の牙城である第一師団(東京)の満州派遣を決定(公表は1936.2/20

   …第一師団は日露戦争以来37年間も東京を離れたことがない

皇道派の盲動を抑えようとしたこの措置は青年将校らに“昭和維新”決行を決意させることに

二・二六事件

 

 

 

 

 

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