昭和初期クーデター研究;三月事件
これらの研究は、シマヘビsanが19歳のときにさまざまな文献を参考として独自で作成したものです。引用はありますが、基本的に自分のコトバで書いています。間違いを発見した方は、その旨をトップページからメールにてお知らせ下さい。また、リンクを貼りたい方もメールで連絡お願いします。勝手な引用は差し控えてくださるとありがたいです。
〔桜会〕
・1930年10月、橋本欣五郎中佐を中心にして急進的な“国家改造”を目指す組織として出現
※陸軍将校が陸軍自身ないし国家の改造を企図した運動や結社例
・ヨーロッパに滞在していた岡村寧次・小畑敏四郎・永田鉄山の三少佐(いすれも陸士十六期)による1921年(大正10)のバーデンバーデンの会合を先駆けとして、1927年に木曜会、1929年に二葉会が成立
・1929年5月、両会員が合流して一夕会が発足
…これらの会は非合法的手段の行使は考えていない
※橋本…岡山生まれ。陸軍士官学校(第二十三期)と陸大を経て参謀本部の情報将校の道を歩み、1927年からトルコ公使館付武官として在任中、トルコ共和国初代大統領ケマル・パシャの影響を受け、軍事クーデターによる政権奪取に心酔するようになる。1930年に帰国し参謀本部第二部ロシア班長に就任すると、左官・尉官級の同志を集めて桜会を発足させる
・桜会のメンバー…参謀本部、特にその第二部(情報・諜報)を中心に組織され、ロシア班・支那班の全班員が加盟したのをはじめ、参謀本部所属将校126名の31%にあたる40名が会員となる
・発足にあたり採択された「桜会趣意書」
「現今の社会を観るに、高級為政者の冒涜行為、政党の腐敗、大衆に無理解なる資本家、華族、国家の将来を思はず国民思想の頽廃を誘導する言論機関、農村の荒廃、失業、不景気、各種思想団体の進出、糜爛文化の躍進的抬頭、学生の愛国心の欠如、官公吏の自己保存主義、等邦家のため、寔に寒心に堪へざる事象堆積たり。…更に之を外務方面に観るに、為政者は国家百年の長計を忘却し、列国の鼻息を窺ふことにのみ汲々として何ら対外発展の熱を有せず、維新以来、積極進取の気魄は全く鎖磨し去り、為に人口食料問題解決の困難は刻々として国民の脅威しつつあり…以上、内治外交上の行詰りは政党者流が私利私欲の外一片の奉公の大計なきに由来する…」
〔三月事件〕
・三月事件=昭和6年2月末頃、桜会が中心となり、大川周明らが参加して作られたクーデター計画
…3/20に民間の右翼と無産政党を動員して1万人の大デモを議会にかけさせる、また同時に政・民両党本部、首相官邸を爆破させる、軍はそれに乗じて非常呼集をかけ、議会保護の名目で議事堂を包囲し交通を遮断する、その後陸軍の代表(真崎甚三郎中将が考えられていた)が議場に入り、国民は現内閣を信頼していないから辞職せよと迫り、幣原首相代理以下を辞職させる、他方、閑院宮・西園寺を動かして大命を宇垣に降下させる。
・事件の動機{橋本の「手記」より}
「昭和六年の議会は最も醜態を演じ、相変わらずの議員の泥仕合」に加え、責任を天皇に期す幣原のような「真の劣悪漢を生ずるに至」り、「斯如き議会の有様は予の心底にむらむらと議会撲滅の信念を強固ならしむ」
※幣原首相代理の失言(昭和6年2/3)
政友会の中島知久平が質問に立ち、ロンドン条約について安保清種海相が作戦計画上不備を生じたと言明したが、この責任をなぜとらないかと質したのに対し、「この前の議会に浜口首相も私もこのロンドン条約をもって日本の国防を危うくするものとは考ないといふ意味は申しました。現にこの条約は御批准になっております。御批准になっているといふことをもって、このロンドン条約が国防を危うくするものではないといふことは明らかであります」と答弁したのに対し、傍聴席にいた政友会幹事長森恪は、幣原の発言が天皇に責任を転嫁する失言であることを聞き逃さず、「幣原、取り消せ!」と怒り、それをきっかけに政友会委員が幣原と委員長の席目掛けて殺到。翌四日、民政党は予算総会の再開を図ったが、幣原が入場すると、政友会側は「売国奴」と叫んで殺到し、喧騒と混乱で議事に入れず、五日も流会。さらに六日は両党院外団が衝突して大乱闘を演じ、議会は両党代議士各一名を含む十三名が重軽傷を負うという修羅場に。
・陸軍省内では橋本らがこの計画を練る…建川美次少将(参謀本部第二部長)・二宮治重中将(参謀次長)・杉山元中将(陸軍次官)・小磯国昭少将(軍務局長)に示して支持取り付け(陸軍の宇垣の同意は不明)
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2月末、橋本は同志の陸軍省調査班長坂田義郎中佐・参謀本部支那班長根本博中佐とともに、参謀本部第二部長建川美次少将を訪問し、その信念を述べて助力を求めたところ、建川の承諾を得る
※建川…新潟生まれ。陸軍士官学校(第十三期)卒業後、騎兵中尉として日露戦争に従軍し、遠距離騎兵斥候長として活躍。その後陸大を卒業し、参謀本部勤務やイギリス・中国駐在等を経て、1929年8月以来参謀本部第二部長。一夕会や桜会のメンバーの信頼を集める。
→建川、参謀次長二宮治重中将・陸軍次官杉山元中将・軍務局長小磯国昭少将らを招いて協議。協議には更に参謀本部第一(編制動員)課長山脇正隆大佐・同第五(支那)課長重藤千秋大佐及び橋本・根本らも参加。
・一方、すでに一月初めに陸相宇垣一成大将は政界に乗り出し内閣を組織する決意を固めており、杉山・二宮・小磯・建川・橋本・根本らと国内改造のための方法手段を協議
…桜会グループに連動ないし呼応する形で、宇垣陸相周辺の陸軍最高首脳部が積極的画策を行っていた
・対民間の工作は主として大川が行う
・資金は主として侯爵徳川義親から出される
・爆弾は橋本が工作して千葉歩兵学校から入手して大川に渡す
・労働組合や無産党からこれに加担したのは、社民党書記長の赤松克麿と同党の亀井貫一郎
…2/18には赤松主催で社民・全国大衆党・労農党共同のデモ隊が議会に押かける
←大川の示唆。三月事件の予行演習を行ったものと言われる
・クーデター計画…重藤大佐中心で作成、かねて重藤・橋本らと接触していた国家主義運動のリーダー大川周明(行地社を主宰)や社会民衆党代議士亀井貫一郎らとも連携し準備。資金は徳川義親(侯爵、尾張徳川家を継ぐ)から20万円を得る。計画では3/20頃、右翼・無産団体を動員して議会にデモをかけさせ、議会保護を名目として軍隊が出動し、その圧力のもとに内閣総辞職を迫り宇垣内閣を樹立させ、国家改造を断行しようとしたもの
↳この計画を知った軍事課長永田鉄山大佐・同補任課長岡村寧次大佐・軍務局付鈴木貞一中佐ら陸軍省側の中堅層は時期尚早であるとして反対。また宇垣も、病状の思わしくない浜口の後継総裁として宇垣擁立運動が起こったのを見て気が変わり、クーデターの中止を命じる。
・3月中旬、小磯が計画中止申し入れ。徳川も同調
→橋本や大川も折れ、中絶(大川は「自分ひとりでもあくまでやる」と息巻くので、困った杉山次官はじめ二宮・小磯・建川ら軍首脳部が赤坂の料亭に大川を招き、上座に据え、陳謝)→クーデター、不発に終わり、秘密に付される
⇔8月頃には三月事件として政界に伝えられ、衝撃
…理由は(一般には)はじめは大いに乗り気であった宇垣が途中で変心し、小磯をして中止にまわらせたといわれる
※クーデターが頓挫したのは、ことの重大さを感じて軍首脳部が尻込みしたというだけのことではなく、当時、民生党の安達派が、浜口が引退したら宇垣を担いで総理にしようと画策していたのを知り、危ない橋を渡る必要もないと考えたためといわれる
→宇垣、一度に全軍の信望を失う →若槻内閣成立当時、南次郎に陸相を譲らざるをえなくなる
→のち(1937)宇垣に大命が降下した時、陸軍が強硬に反対して遂に内閣を流産させてしまったのもこの時の
不信が尾を引いたためといわれる
・三月事件は国民に対してはWWU後まで隠される
・三月事件の影響…軍の首脳部の統制が落ち、中堅層が独走態勢を強くした
→満州事変もこうした前提のもと可能に
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