Tale 8

 アウリールが放った光が消えると、そこには見慣れたファイールの景色があった。
 何よりもフェリスが嬉しく思ったのは、すぐ隣でエレインが微笑んでいてくれたことだった。幻ではない。いつでもすぐに触れられるほど側にいるのだ。何日か前の自分には想像すら出来ない現実だ。
 あたたかく優しく、穏やかなその笑顔は、いつでも自分を癒してくれた。信じられないような、それでも本当の現実である原初の海や時の螺旋のことも、「すべては大丈夫だ」と言ってくれているようで。
「懐かしいわ……本当に、ここはファイールなのね……」
 空色の瞳は民家や市場、劇場や図書館、公園、貴族の館、ファイール城、そのひとつひとつを丁寧に見ている。老木は丘のような高台にあるので、ミールの街全体を見渡すことが出来るのだ。
 ついさっき夢のような出来事を体験して混乱していた5人も、ミールの街を見てやっと現実に引き戻された。
「さてと。帰りましょうか? 明日はミールを案内してくれると嬉しいな。私、城下町に入るのは久し振りなのよね」
 にっこりと笑って言うエレインを、フェリスが呆然と見つめる。とにかく美しいのだ。外見から考えれば「可愛らしい」と言った方が似合うはずだが、普通の14、5歳の少女には醸し出せない何かがある。
 それもそのはずで、エレインは外見よりもずっと長い間生きている。フェリスたちの知らないことを知っているだろうし、色々な体験をしてきたはずだ。その全ての経験や知識が、より一層エレインの美しさを際立たせている。
 エレインに見惚れていたフェリスのすぐ側で、トーンの高い笑い声がした。ジュリアスだ。フェリスは我に返る。
「僕でよければ明日、案内する。……ところで、今日はどこに泊まるんだ?」
 フェリスに尋ねられ、エレインはポケットの中に手を突っ込み何か紙切れを取り出した。
「ここに宿を取ってあるって、長様が。でもどこなのか分からないのよね。聞けばすぐ分かるって言っていたけど」
「……ああ、あそこか。通り道だし一緒に行こうか」
 少し困惑の表情を浮かべたエレインの手の中にある紙切れを覗き込み、フェリスはもう一度尋ねた。
「僕たちも一緒だけど?」
 ジュリアスがそう言うと、忌々しそうにフェリスはジュリアスを睨んだ。
「悪いねー、お2人さん。俺たちも同じ方向だからさ」
「僕と兄様はちょっと手前で別れるけどね」
「別に俺も邪魔したいわけじゃないんだけどさぁ」
 口々に、ラディウスもアルフィードもフェリクールも言い訳がましいことを言う。フェリスは不機嫌そうに4人を睨みつつ、照れているのか少し赤面して言った。
「僕は別に……」
 ジュリアスを含め4人が顔を見合わせると、申し合わせたように声を揃えて言った。
「だって、ねぇ」
 4人は明らかにフェリスの反応を楽しんでいるようだった。

 

 草原から城下町へ出ようとすれば、城内を通ることになる。遠回りをすれば城は通らなくていいが、町の外壁をぐるりと回ってくることになるので着く頃には、それこそ日が暮れてしまう。今はまだ日は高い。人通りが多いから注意していかなくてはならなかった。どうにかしてエレインを怪しまれないようにしなければ。
 草原に来る時に使った門は開いていた。先頭を歩くフェリスは音を立てないようにそっと開けたつもりだったが、ギィと重い音が鳴ったので辺りを見まわす。庭師は木の世話をしていて、音には気付いていない様子だったのでホッとした。
 振り返ると、森では見たことがないであろう人間界の景色をもの珍しそうに眺めているエレインが見えた。14、5歳の外見とも、実際の年齢とも違う小さな子供のような姿がとても愛らしい。
 城へ伸びる道は細いので、前にフェリスとラディウス、真ん中にエレインとジュリアス、後ろにフェリクールとアルフィードという風に3列に並んで歩き始めた。
「変わらないわね。庭師さんも4年前と同じ人でしょう?」
 エレインが背の高い木の手入れをしている庭師の方を見ながら口を開いた。
「そうだけど、どうしてそれを?」
 エレインは城内には入れなかったはずなのに、どうして知っているのだろう。不思議に思ってフェリスが尋ねた。くすくすと小さな声を立てて笑いながらエレインは答えた。
「あのね、魔法を使えば見えるのよ。あんまり一般的な力の使い方じゃないから、知っている人は少ないと思うけど」
 そうエレインに言われて、フェリスはジュリアスの父、ヴァルシアを思い出した。ヴァルシアはあの時、風の精霊に力を借りていた。もちろんフェリスやジュリアスはそういった力の使い方も知っている。ただしそれは人間たちの知識であって、魔法の開発や研究を人間ほど熱心にしていないと言われている妖精たちは知らないだろうと思われていたのだ。
 人間界でも全ての人間が知っているわけではない力の使い方を、その妖精であるエレインが知っているとは思わなかった。言葉から察するに、妖精たちの中でもあまり一般的ではないようだが。
「風の精霊が司るのは"伝達"でしょう? "ここだ"って特定できるなら、今そこで何が起こってるのかとかが見えるの」
 結局、人間も妖精もあまり力の使い方は変わらないらしい。違うのは身体に内在する法力の大きさだけだ。
「でも、基本的に法力が私たちの方が大きいから、かなり遠くまで見られるのよね」
 フェリスの考えを読んだかのようにエレインが言う。そして、大陸を越えたくらいで途切れると思うけど、と付け加えた。
「へえ。やっぱり人間と妖精ってそんなに差があるんだ。やっばり、エレインから見ると僕たちの力はほんの小さなものなの?」
 空を見上げながらジュリアスが感心したように呟いた。
「悔しいの?」
「まあね」
 子供染みてるでしょ、と呟いてジュリアスは自嘲気味に笑った。エレインが首を横に振ると、黄金色の髪がふわりと揺れた。少し微笑むと、エレインはジュリアスだけではなく全員に向けて話し始めた。
「でもね、あなたたちって、人間に生まれてきたのが不思議なくらいなのよ」
 エレインはそう言うと、指先に淡い光を灯して何か描き始めた。
£Ψ、ζμψ――精霊が精霊である印。そして、フェリスたちの身体に刻まれている刻印。指先の光が軌跡となって5つの刻印が空中に浮かび上がる。
「この印を持っている人は、例外なくとても強い力を持っているのよ。普段は、あまりにも大きな力だから制御が利かなくなったら危険でしょう? だからそれが全て発揮されることは少ないけど」
 そして、エレインが両の手のひらを打ち合わせると、5つの刻印はふっと掻き消えた。
 刻印を消してエレインが話を終わらせたのは、城内へ続く扉の前に着いたのを見計らったようだった。目の前にある、やや大きめで装飾の少ない扉は、案外と軽く開いた。
「城に入るだけで緊張するって、すっごく不思議な感じがするんだけど」
 フェリクールが右手で左胸の心臓を押さえながらそう言った。フェリクール自身のせいでもあるが、今回はエレインが不審に思われるかもしれない。見つからないように慎重に行動しているため余計にだった。
「確かに。いつでも自由に入れるもんね、僕たち。こうしてみると、特権階級っていうのは便利だよね」
「……もしかして私がいるせい? だったら城下町の方から来た方がよかった?」
 エレインが気まずそうに上目遣いで言った。
「いや、あの、大丈夫だから……」
 フェリスがそう言っても、エレインは申し訳なさそうな顔をしてフェリスたちに付いて来る。第一、城下町まで行くのに時間がかかって仕方がない。ミールの外壁をぐるりと回ってくることになるのだ。何せミールは広い。約3万の人々が生活しているのだからそれ相応の広さがある。それはエレインも分かっているはずだ。
 エレインが俯いたままなのでフェリスはどうしたらいいか慌てて考え始めた。ジュリアスは笑いを堪えながらたったひとりの少女のためにあたふたしている親友を見ていた。
 そしてふいにラディウスが口を開いた。
「ところでエレイン。あの森にさ、アルフィードと同い年くらいの男のがいただろ? ルーフォって言ってたっけ」
 ラディウスが話を逸らしたので、エレインは6人の間に漂っていた気まずい雰囲気から新しい話題に逃げた。それでもエレインは申し訳なさそうな顔をしている。自分の言葉でせっかくいい雰囲気だったのを壊してしまったので、自分で自分を責めているのだった。それが分かったので、自分よりも回りを気にするのは変わらないな、とフェリスは思った。
 決して悪いとは言わない。悪いとは言わないが、どんなに自分のことがおろそかになっても人のことを気にかけるエレインの将来を考えると、もう聖職者か何かにでもなるしかないのではと本気で思ったものだ。
「そうよ。ルーフォがどうかした?」
 エレインはいつも通りの穏やかな微笑みを浮かべて応えた。
「あいつと話してる時さ、"光の神の名にかけて"って言ってただろ。あれって何か意味があるのか? いやさ、"光の神"にだけじゃなくてもいいんじゃないかと思って」
「"光の神"が誰を指しているのかは分かるわよね」
「ああ、女神リディアだろ」
 ラディウスの答えを聞くと、エレインは満足そうな笑顔で頷いた。
「そう。私たちはリディア神の加護を少なからず受けているし、それに」
「それに?」
 ラディウスが促すように尋ねると、エレインは何だか嬉しそうににっこりと笑った。
「……驚かないでね。アウリール様が"この目で見た"って仰っていたんだけど。ずっと昔、2000年以上前になるわ。その時、エルフが魔族に侵略されていたそうなんだけど、リディア様がご自身の光の力を以って魔族を彼らの世界に送り返して下さったのよ!」
 嬉しそうに語るエレインとは反対に、汚らしいものを見るように嫌悪や侮蔑のこもった、しかし何処か悲しみをたたえた目をしてラディウスは何処か遠くを見ている。
「どうかした……?」
 心配そうな目でエレインはラディウスを見上げた。
「いや、何でもない」
「……そう? ならいいけど」
 不自然だが優しく笑って見せるラディウスに、それ以上の追求もできないのでエレインは何も言わなかった。怒り、悲しみ、蔑み、そんな色々な感情を押し殺したような笑みだ。
「それ、本当にあのアウリールって人が見たの?」
 今度はジュリアスが話題を変えた。いくらハイエルフやエルフが長命な種族だと言っても、その中で一番寿命が長いとされているハイエルフですら1000年が限度だ。エレインの口ぶりからすると、本に書いてあったことを話しているというよりも、誰かに聞いたような感じだ。だとしたら、誰が知っているのだろう。
「そうよ」
「本当に?」
 ジュリアスはまさかと思いながら聞き返した。綺麗な弓形の眉をひそめている。
 エレインは少しジュリアスを仰ぐと、微笑んだまま頷いた。
「本当に」
 エレインはおうむ返しに応える。
「だって、ハイエルフだって1000年くらいしか生きられないって……」
「普通はね。でもね、森の長様になった方は妖精王様や、精霊、神々や全ての自然からたくさんの祝福を受けるの。その祝福のおかげで、1000年どころかその何倍も生きられるのよ。今の長様は、5000年近く生きてるって」
 人間なら100年単位、いや10年単位の話の筈なのに、見た目にあまり差がないエルフと比べてさえスケールが違いすぎる。ハイエルフの長命さでも既に想像がつかないというのに、まさかもっと生きているハイエルフがいるとは。
 眩暈がしそうだ。
 たったひとりのハイエルフが、人間何十人分もの歴史を見てきたのだから。
「でも今までの長様で一番生きた人だと8000年くらいですって。アウリール様もまだまだ生きると思うわ」
 更にものすごい数字を出され、エレイン以外の5人は驚きを隠せなかった。それでもエレインはさらりと言ってのける。
「ところでさ、エレインってどのくらい生きてる……?」
 フェリクールが恐る恐る聞いてみる。女性に年齢を聞くのは失礼だと心のどこかで思いながらも、その気持ちに好奇心が勝った。
 エレインはすぐには応えなかった。何かを考えているようだ。
「……私は、えっと。何歳くらいだっけ? 10歳くらいの時にリデリア戦争があったんだから……」
「も、もういいよ」
 そこでフェリクールが止めなかったら、エレインはいつまで考え続けるのだろう。止めが入ってからも少しの間、色々と思い出そうとしていた。
「私たちって基本的に長生きだから、自分がいくつだか数えるのが途中で馬鹿馬鹿しくなってくるのよね」
 エレインは笑ってそう言う。
 本当に、この少女は一体どれだけの間生き続けているのだろう。

 

 他愛ない会話をしばらく続けていると、城から出る扉に着く。
 扉の両脇にいる兵士が恭しく頭を下げ、ゆっくりと大きな扉を開いた。
「じゃあ、僕たちはここでお別れだね」
 アルフィードとフェリクールは勝手に外へ出られないため、城の中で別れる。アルフィードはいつもの無表情で、フェリクールは元気に笑って手を振っている。
「ここからが問題だよね。門で声かけられたりしないかなぁ」
「誰かの親戚って言っとくか。俺は無理だぞ。かなり似てないから」
 ジュリアスとラディウスが2人揃ってフェリスを見た。
「で、僕か」
 ここまでは何も声をかけられなかったが、エレインは城下町の方から入ってはいない。入っていないのに出ていないから怪しまれるかもしれない。もしも門番の兵士が交代していたとしても、フェリスたちのように貴族だったりするわけではないから轢きとめられてしまうかも知れない。
 ジュリアスは銀髪。目の色は似ていなくもないが、それだけだ。
 ラディウスに至っては髪の色も目の色も、顔立ちも似ている所が全くない。
 となればフェリスだが、フェリスとエレインがそっくりかというとそこまでいかない。が、フェリスの母、イリアとエレインはどこかしら似ている。母方の親戚と言えば、まずばれることはないだろう。
 幸いにも今日エレインは、派手ではないが、なかなか上質な生地でつくられたドレスを着ている。地方領主の娘だったイリアの血縁なら、それくらいでちょうどいい。
 3人がそんな話をしているとは露知らず、エレインは無邪気に庭園の草花を見て、鳥と戯れていた。鳥と会話が出来るのかも知れない。エレインの周りには小鳥が集まって来ていた。
「エレイン! 置いてくよ!」
「あっ、待って!」
 ジュリアスが声をかけると、エレインはスカートの裾を翻して振り向き、フェリスたちの方へ走ってきた。
 エレインは、切らした息を整えながら歩いていく。
「ねぇ、あそこに人がいるわよね。あれって見張りの人?」
「まあ、大体そんなもの。それでなんだが、エレイン。エレインはあの門から入ってないから怪しまれるかも知れない。だから僕の従妹ってことにしておくから。エレインは何も言わなくていい」
 なぜ怪しまれるのか、なぜ従妹と言っておかなければならないのか。分からなかったがエレインはとりあえず頷いた。
 歩いていくたびに少しずつ門が近づいてくる。いくらこの城が開放的だとは言え、自由に出入りできるのは顔と名の知れた人間だけ。通行許可証を持っていなければ兵士に連れて行かれてしまう。
 もしもばれてしまった時の事を考えると、フェリスは心配で仕方なかった。いつも"大丈夫、大丈夫"と言っているジュリアスとラディウスも、珍しく不安そうだ。
 門の前まで行くと、案の定兵士が4人を引き止めた。
「失礼ですが、その女性は?」
 城に来た時と違う兵士だったが、同じ鎧を身に着け、同じ口調で尋ねてくる。同じ人間なのか違う人間なのか、判断するのは難しかった。
「僕の、従妹だ。母方の。……何か?」
「いえ、失礼いたしました。お通り下さい」
 城の扉が開かれた時と同じように、兵士は恭しく頭を下げる。
 この行動の丁寧さが鬱陶しくなってくる。
 ばれやしないかと思えば思うだけ、時間はゆっくり流れて行く感じがした。
「よかったね。何も言われなくって」
「ドキドキもんだな」
 ジュリアスもラディウスも、緊張感のない口調で言う。
 自分はまだ不安だというのに。
 フェリスは口に出しそうになったが、止めた。大抵のことは楽観視する2人は、今だに心配していることをからかわれそうだ。「俺はエレインを送ってくけど、お前らは家に帰るんだろ? じゃあな」
 嬉しそうな笑顔で手を振るラディウスをフェリスは睨んだ。黙って立っているだけでも気圧されるだけの迫力があるだけに、意識してフェリスが睨むと気が弱い者ならすぐに引き下がってしまう。
 本気ではないと分かっているラディウスはおどけた仕草で肩をすくめた。
「怖えなあ。ったく」
「でもさ、何にしても僕たちはエレインが泊まる所の手前で別れることになるよ。どうする、フェリス?」
 恥ずかしさもあってはっきりと「エレインを送っていく」と言えないフェリスがおもしろいので、ジュリアスはからかうように言った。
「……フェラルドの所に寄っていく用事もあるから、一緒に行く」
 ジュリアスは書店の主の名を出して用事にすることにしたらしいフェリスを見て、くすくすと笑った。ラディウスに向き直り、意地の悪い笑みを浮かべて言った。
「はいはい。じゃ、そういうことでラディウス。僕たちも一緒だからね」
「つまんねぇなあ」
 呟くラディウスを再びフェリスが睨む。ラディウスも面白がっているのだ。
「じゃ、早く行こう」
 ジュリアスが声をかけると、4人は再び歩き出した。
 それにしても、かなり長い間歩いたはずだというのにすぐ横にある塀は途切れる様子さえ無い。フェリスたちのようにミールで育った人間にとっては当たり前の景色だが、森で生まれ育ったエレインには不思議で仕方なかった。
「どうしてこんなに塀が長いの? これは全部誰かの家?」
 エレインがそう尋ねると、フェリスやジュリアスはさも当たり前のように頷く。
 どこが当たり前なのか、とエレインは驚きを隠せなかった。
 ミールの街は円形の城壁に囲まれている。一番北に王城があり、南に街を出入りするための門がある。円の直径を描くように長く南北に真っ直ぐ伸びる大通りがあり、その通りはどの区画でも例外なく人通りが多いので賑わっている。
 そして、町は大きく3つに分けられている。第1区画と呼ばれる王城に近い辺りは王侯貴族が住んでいる。どこまで歩いても途切れない塀は貴族の、金銭的に裕福な人間の家だと説明すると、エレインは少し納得したようだった。
 第2区画、街の中心を占める辺りにはフェリスたちの在籍している学習院や劇場などの教養施設が多い。剣や鎧の職人の多くはそこで生活している。
 そして一番南、門に近い第3区画では一般の商店や市民が生活している。エレインが取ってあるという宿はこの区画にあるのだが、道が意外とややこしい。この街で生まれ育った人間なら迷うこともないのだが、そうでない人間ではよく迷うという。
 きっちりと整備された第1・第2区画とは違い、角があったと思ったら曲がった先は行き止まりなどということがよくある第3区画では、いかにもおっとりとしたエレインをひとりで行かせるわけにもいかない。
「どうしてこんなに何回も道を曲がるの? もっと簡単に行けそうなのに」
 初めてミールに、人間界の大都市に訪れたエレインにとっては全てが新鮮だった。
 ずっと昔に人間の街に行ったことはあったけれど、こんなに広くて大きくはなかったわ!
 歓びに任せて叫んでしまいたい。
 身体は疲れているはずなのだが、今日はそんなものを吹き飛ばせそうなくらいたくさんのものを見た。
 ミールに来てまだ1日。明日はもっと、明後日にはもっともっとたくさんのことに出会えそうな気がして、エレインは嬉しくなった。その日は興奮のあまり、遅くなっても眠れなかった。

 

 フェリスは、エレインを送り届けてフェラルドの書店に寄り、自分の部屋に戻ってからやっと、今日の体験がいかに不思議なものだったのか思い知った。
 そもそも異世界の存在――妖精――に会ったのが不思議だ。夢だったのではないかと思うくらい、とにかく不思議だ。
 なぜあの老木に触れた時、自分たちは森にいたのか。
 なぜ人間よりも力があるはずの妖精たちが、力の底が知れた、たかが人間などに「力を貸して欲しい」などと言ったのか。
 なぜ自分たちは刻印の主に選ばれたのか。
 考え始めればきりのない、幾つもの「なぜ?」が頭の中に浮かんで来る。
 そしてアウリールに応えるべきか否か。
 アウリールに応える場合は長い間家を離れることもあり得るかもしれない。
 誰かに言っておくべきか。言わないで出ていくべきか。
 考えあぐねていると、声が響いて来た。
 大丈夫。
 時間はまだある。
 自分にしては珍しく、明日のことを、次のことを楽観的に見た考えだ。
 フェリスは呪文のように「大丈夫」と繰り返した。
 それだけでも気が楽になる。
 それは、眠れる呪文のようでもあった。

 

 もう夜の帳も落ちる頃。
 ぼんやりとした光を放つランプだけが部屋を照らしている。
「俺には、何のために自分が行こうとしているのか分からない」
 ソファに腰掛けて指を組み合わせているのは、淡い茶の髪に、エメラルドグリーンの瞳。ラディウスだった。
 ラディウスが誰かに向かって言った。
「……そう」
 短く女性の声が返ってくる。氷のように硬質で、ひんやりとした、けれど透明な美声。
「でも、何かが俺を動かしているんだ。神の力か、運命か、この刻印か。それとも、俺自身の無意識か。それを見つけたい。守りたいものなんて今は無いし、全部守る、なんて格好いいことは言えない。でも……」
 ラディウスが言葉を切ると、暗闇の中から一人の人間が姿をあらわした。淡い光に照らされているだけなのでよくは分からないが、面立ちも体つきも少女と言うよりは女性だ。身に着けているドレスが、柔らかい身体のラインに沿っている。
 それに、珍しい髪の色をしている。緑に灰色を混ぜたような、でも美しい色だった。
「……兄様らしいわ」
 硬い氷の中から滲み出た感情は、悲しげなものだった。その感情が声に、表情に現れた。
 言葉からすると、ラディウスの妹なのだろうか。よく見れば、顔立ちが似ている。
「そうね。格好よくなくてもいい。傷付いてもいいと思う。私は"世界を守って"だなんて犠牲者ぶったりしないわ。貴方は世界を守るために行ってはだめ。ただ自分のために、行って」
 言いきったように聞こえるが、どこかに迷いがあるようで、最後の方になると、その声は聞こえないくらい小さくなっていた。「シアン」
 扉に近づいて、部屋を出ていこうとする女性を呼びとめるラディウス。
「行ってしまうこと、教えてくれてありがとう」
 そして、シアンと呼ばれた女性は静かに部屋を出ていった。

 

「早く! 急がないとエレイン待たせちゃうよ!」
「もとはと言えばお前が……」
 学習院の校舎を飛び出すや否や、疾風のように駆けながら2人は言い合い始めた。
「うるさいな!」
 フェリスが何か言いかける前にジュリアスの声がフェリスの言葉を遮った。
 話の種を作ったのは自分だが、そんなことを言い合っている場合ではないと気付きジュリアスはフェリスをちらりと見て走り出した。
「でもさ、フェリスが怒ることないじゃない」
「僕がせっかく待っててやったのにその態度か?」
 学院の門を出ると、急いで大通りに出てエレインの宿に向かう。2人は昨日、エレインとの別れ際に「3時ごろになったら迎えに行くから、ミールを案内する」と約束していた。
 普通ならゆっくり歩いても間に合う。ただ今日は、ジュリアスが講義中に教師を怒らせるような発言をしたために授業の後に説教されたのだ。その間、フェリスはイライラしながら待っていた。
 そして、ジュリアスが教室から出て来た時だ。説教されていたはずのジュリアスの態度があまりにも気の抜けたものだったのでフェリスは珍しく怒りをあらわにした。
 フェリスもジュリアスも体力はある方なので全速力で走っても大丈夫だが、買い物をしていた親子も、走り回って遊んでいた子供たちも、走り続ける2人に驚いていた。
 そうこうしている内にやがて宿に着く。別にとりたてて有名な宿というわけでもないのでフェリスやジュリアスのような貴族の人間はあまり行かないが、宿の名前と住所を見れば場所は大体分かる。
 エレインの部屋は前もって聞いてあるので、真っ直ぐ部屋に向かい2回ノックした。ノックをしてから返事が返ってくるまでの数秒すらもどかしい。
「あの、エレイン……」
「2人ともどうしたの? 大丈夫よ、そんなに急がなくても」
 フェリスもジュリアスもかなり焦っていたが、エレインはいつもと変わらず穏やかな笑みを浮かべてそう言った。約束の時間はとうに過ぎているというのに、これっぽっちも気にしていないというように。
「あの、ごめん。時間、過ぎてしまって……」
「いいのよ。学校って忙しいんでしょう? 私のために時間を作ってくれたんだもの。それだけでも嬉しいわ」
 エレインはにっこりと笑った。誰もが安心するような笑顔だ。
 今し方まで焦りに焦っていたことすら忘れさせるような、時間の進み方さえ違うのではないかと思うような。
 部屋の中は暖かな雰囲気が漂っていた。宿の外装は北方風で、木の柱が表に出ていて木造の温かみが十分感じられたが、内装の方も柱を効果的に見えるようにしていた。ベッドにも椅子にもテーブルにも、丈夫そうな木が惜しみなく使われている。
 森の中で育ったエレインの場合、こういった所の方が居心地がいいのだろう。
「じゃあ、行きましょうか?」
 エレインはフェリスとジュリアスを交互に見つめながら言った。そして自分からドアを開ける。
 その向こうにはもう新しい世界が広がっている気がした。

 

「アルは、俺のことを止めないで欲しいんだ」
 王宮の、ミールの街を見渡すことの出来る見晴らしのいい一室で、少年のものらしい声が聞こえる。
 窓から見える景色は、ほんの小さなものだった。人間の姿など、ほとんど一本の細い糸のように見えた。
 日は高い。街の中心を走る大通りには糸ほどにしか見えない人々がたくさん集まっていた。
「……うん」
 茶色の髪と深緑の眼をした少年――フェリクールの言葉に、アルと呼ばれた小さな少年――アルフィードが頷きつつ答える。
「俺は、数え切れないたくさんの人たちが築いてきたこの国を、そしてこの国に生きる民を守りたい」
「……」
 アルフィードは沈黙を返した。ただじっと、澄んだ蒼い瞳で深緑の瞳を見つめている。
「俺が今ここにいなくていいかっていうと、そんなわけでもないと思う。でも、俺には今、今ここにいるよりも成すべきことがあると思う。より多くの民を守るために」
 言おうか言うまいか、口を開こうとしてはやめたりしていたアルフィードが意を決したようにしっかりとした口調で言った。
「そうだね。僕たちがこの国を守るんだ。行こう。そしてこの国へ帰るんだ、みんなで」
 窓の外にある街を、行き交う人々を見ていると、どこからか強い思いが込み上げて来た。
 この国を守りたい、と。

 

 美術館の展示品も、図書館にある数々の書物も、行き交う人々の会話のそのひとつひとつも、エレインにとっては新鮮だった。 どこが一番楽しかったとか、そんな風に順位をつけられない。見るものの全てが初めてなのだ。
 絵のひとつひとつを、その筆づかいをじっくりと眺め、彫像に刻まれた幾つもの表情を眺めた。
 びっしりと紙にしきつめられた文字を眺め、本の装丁の美しさに見惚れる。
 子供たちの笑い声も、大人たちの世間話も、猫の鳴き声も、すべてに耳を澄まして。
 すべてが、今まで見てきたものの中で一番輝いている。
 フェリスはエレインの喜ぶ顔を見ているだけでも幸せだし、ジュリアスは友達が喜んでいるのだからそれでいいと思った。
 案内されている間のエレインは子供のようにはしゃいでいたが、もうそろそろ帰ろうとなった時にフェリスもジュリアスも疲れていた。それに対し、エレインはまだまだ元気だった。小さな子供――フェリクール辺りに付き合っているような感じだった。
 何日経っても同じだった。劇場に行っても、学習院に行っても、何を話していても。
 それは、エレインのためにミールを案内し始めて3日経った日の帰り道だった。エレインは、近くまで行けばもうひとりで宿まで辿りつけるようになっていた。
「フェリスはさ、あのアウリールって人が言っていたように世界は壊れるんだと思う?」
 ジュリアスに言われて、フェリスはこの3日間考えないようにしていたことを考え始めた。
 このままでは世界が壊れるなど、そんな言葉は笑い飛ばせるような気がしていたのだ。
 もしかしたら、そう思いたくなかっただけかもしれない。今のこの、穏やかな日々を失いたくはないと。
 でも、それはきっと真実なのだ。
 あの思慮深そうなハイエルフの長が、何の確信もなく自分たちを不安に陥れるようなことはしないと、フェリスは思った。
「……多分、真実だろうな」
 フェリスが答えると、ジュリアスは俯いて黙ってしまった。しばらくして、小さく、囁くようにフェリスに尋ねる。
「フェリスは、行くの?」
「僕には、語り継がれてきた英雄みたいに"世界を、全ての人々を守る"なんて言えない」
 ジュリアスは眉をひそめた。自分の質問の答えになっていないではないか。
 そう思ったが、とりあえず黙って頷き、聞いていることにした。
「でも僕は、家族や友達や、エレインを。その人たちの生きる世界を守りたい。ただ、それだけなんだ」
「……」
 ジュリアスが黙ったままでいると、フェリスも尋ねた。「行くのか」と。
「うん……行くよ」
 俯いていたジュリアスが突然顔を上げたので、フェリスはびっくりした。
 その表情は、晴れ晴れとした笑顔だった。
「理由なんてきっとそれだけで十分なんだ。だって、僕らが正しくなくちゃいけない理由なんて、どこにもないんだから。だって、僕らは神様じゃないんだ」
「そうだな……どんなに愚かでも、どんなに悲しくても、人間はこういう風にしか生きられないんだ」

 

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