Tale 11
気の強そうな釣り気味の、しかし穏やかなベイビーブルーの瞳を持つ銀髪の少女――アンジェリアは親指の長さと同じくらいの厚みの本を無心にめくり続けていた。眉間に寄った皺が彼女の苛立ちを物語っている。
更にその目の前には、同じような本がいくつも乱雑に積み重ねられている。
「……あの二人を送るのにかなり力使ってるっていうのにあのババア。何だってこんな時に課題なんて出しやがるのよ」
言葉遣いが淑女らしくないことなど関係ない。いつものように叫ぶ気力が無いので、小さく呟く。
フェリスとジュリアスがミールを出て五日(フェリスたちにとってはまだ一日弱)が過ぎたが、その二人の家出の片棒を担いだアンジェリアが使った力は未だに回復していなかった。
その証拠に、元々白い肌がひときわ色を失って蒼ざめている。
この数日、家族やら友達やらに心配され、その受け答えも面倒になってきた頃だ。アンジェリアのクラスの担当講師であるゼフィカリア女史――アンジェリアが「あのババア」と言っていた人物――が課題を出した。休日を挟んで小さな課題をちょくちょく出して来るのはいつものことだったのだが、肉体的にも精神的にも参っていたアンジェリアは、今すぐ倒れてしまいたい気分になった。それこそ倒れてしまえたら楽だろう。かといってそこまで自分はやわではない。数分の間、課題から逃れる方法を必死で考えたが、どう考えても無理そうなので考えるのをやめた。考えるのにも体力がいる。
だが課題は課題。しっかりと提出しなければ卒業が難しい。
だからこそ今真面目に、フェラルドの書店で資料を探している。
今も指先はページをめくり続けているのだが、もう内容など殆ど読んではいない。まるで洗脳されているかのように、ただ手だけを動かしている。
さすが「神の愛し子」ジュリアスの姉なだけあり、魔力の高さには自信があったアンジェリアだったが、一人だけではなく二人も、となるとやはり疲れてしまう。いや、本当は「疲れた」というだけでは済まされない疲労感がアンジェリアを襲ったが、うっとうしい心配性の兄(一番上には二つ年上の兄がいるのだ)がうるさい。我慢をして睡魔、そして疲労感と闘っていた。
「おや、アンジェ。そのままだと眉間の皺が取れなくなるぞ」
いたってのんきそうな声がして振り向くと、のんきそうな顔をしたフェラルドが積み重ねられた本を抱えて歩いてくる。
フェラルドにはヴァルシアとそう変わらない歳の息子がいるから、もう老人と言ってもいい。それなのに、ひょろりと高い背に見合う体格と若々しすぎない洒落た姿がとても似合っていて、年齢を感じさせない。
「……フェラルド」
いつもは一発殴りに行くアンジェリアだが、今日は自分とは違って楽しそうなフェラルドを睨みつけた。
フェラルドは、彼よりも二回りも三回りも年下の少女にびくりと体をこわばらせた。普通、殴りに来るアンジェリアは怒っていながらもどこか楽しそうで、言動も冗談めいているのだが、今は違う。完璧に目が据わっている。
と、その時。店の扉に取り付けられている小さな鐘がカラン、カランと乾いた音を響かせた。フェラルドは救われた、アンジェリアは怒り損ねた、と小さく舌打ちしながら扉を見た。
そこには、アンジェリアによく似た、しかし全体的に穏やかな印象を持つ若い男と、緩く波打つ淡い茶髪の、連れとは対照的に雄々しい男――ヴァルシアとブローディアがいた。
「ああ、二人とも。助かったよ。アンジェが恐くてね」
そう言うフェラルドに微笑む父とブローディアは何をしに来たのか。
フェリスとジュリアスの事情を知っていて秘密にしている手前、その二人の親がいると何やら後ろめたい。
同じ場に居るのは辛いのでアンジェリアは席を立ち、本を探している振りをしながらその場から遠ざかった。しっかりと聞き耳を立てながら。
「それで、一体どうした。仕事は?」
カタカタと椅子の音をさせながら話し始めた。
「ちょっと先輩に相談に。仕事は……最近は陛下だけじゃなくて、他の奴らもおかしいからね。追い返されてしまったから、暇なんだよ。今私たちがやるべきことはとりあえず王宮には無いと思うし」
真剣な面持ちでブローディアが頷く。
まだ五日しか経っていないというのに、ジュリアスと少し似ている父の口調が懐かしかった。
「追い返すだなど……誰が?」
「……カロッサ卿が」
父が苦笑しながら、そう言うのを聞いた。怒っているようでも、嘆いているようでもなく、ただ静かに受け入れているような声だった。
「小父様が……?」
アンジェは物陰でこっそり呟いた。カロッサ卿と言えば、アンジェリアにとっては「優しい小父様」だった。小さい頃から、ずっと前に亡くなった祖父の代わりのような人。優しくて、穏やかで、とても素敵に歳をとった人だと、そう思っていた。自分は女で彼は男だけれども、どうせ歳をとるのなら、あんな風になりたいと思わせる人だった。そんな人が、なぜ父を追い出すだろう。
「陛下の意志だと、済まなそうに笑っていた」
落ち着きなく長い脚を揺する父の姿が見えた。
「……私はどうすれば良いだろう」
「待ってれば良いんじゃないか」
当たり前だと言わんばかりの言い方。何でそんなことを聞くんだ、と眉をひそめながらもブローディアは自信ありげに言った。
「……君は何をしにここに来た?」
「ただついてきただけだぞ?」
そうだ、そうだった! この人はこういう人だった!
その答えがあまりにブローディアらしくて、アンジェリアは遠慮無く吹き出した。そっと顔を出してちらりと様子を覗いてみる。フェラルドの背中が正面に見えた。
「はあ?」
思わずおかしな声を上げるヴァルシア。
普通ならからかわれているのかと思うところだが、ブローディアが真顔で言うものだから、ヴァルシアも怒るに怒れず、呆れたような困ったような声で言った。
「なんとなくって……じゃあ、私がなぜここに来たか解るか?」
「解っているさ。ジュリアスのことだろう。あとはフェリスとラディウスのこともだし、殿下たちも……」
「……じゃあ君は心配じゃないのか? 突然いなくなったんだぞ?」
「心配じゃないわけないだろう。たった一人の息子だし、イリアは毎日溜め息ばかりだし……。
でも、信じているからな。誰に似たのか陰気だが、ああ見えてフェリスは芯の強い奴だ。実際に、大抵のことを切り抜けられるくらいには強い。武芸は俺仕込みだからな。それに、俺とは違って頭もいい……ここまで言うと親馬鹿だよな。だからまあ、大丈夫だろう。気長に待っているつもりだ」
どこまでも本気らしいので、ヴァルシアはため息をついた。
「それで? ヴァルシアはどうなんだ」
フェラルドが言った。顔が見えないのでよくわからないが、きっとフェラルドは笑っているのだろう。しかも柔らかいとか穏やかな、という感じの笑顔ではない。ヴァルシアの反応を面白がっているだろうフェラルドは、ラディウスのように意地の悪そうな笑顔を浮かべているに違いない。
「……そりゃあ私も信用してはいるよ。ジュリアスの強さは私もよく知っているつもりだし、ちょっとやそっとじゃ死にはしない。それについては心配なんてしていないさ。でもやっぱり不安なんだよ。帰って来ないんじゃないかってね。私は弱いから、君やアンジェのように強くいられないんだよ。
他にも誰か、アンジェやアスールもどこかへ行ってしまうんじゃないかと思ってしまうんだよ」
アスールはアンジェリアとジュリアスの兄だ。アンジェリアとしては、何かと構ってくるので疎ましいと思っている。ただし、決して嫌いではない。
次の言葉で、アンジェリアは父の苦悩が自分よりも深いということを思い知った。
「今は手元にあっても、すり抜けて行ってしまいそうで――怖い」
一度として父が見せたことも無いような、淋しいだとか悲しいだとかを通り越した悲痛な表情だった。あまりに痛々しくて、見ていられなくて、顔を背けた。
違う。自分は強くなんてない。強く見えるのは、少しだけ知っているから。父は何も知らないから不安なのだ。
全部話してしまえたらどんなに楽か。
ただ信じ続けているのは、何も知らないよりはまだましかも知れないが、とてつもなく不安だ。支えに出来るものは自分以外に無いのだから。誰かと不安を慰め合うことすら出来ない。
吐き出してしまいたい衝動に駆られる時がある。その度に自分を叱りつける。自分が彼らを信じているように、彼らもまた自分を信じてくれているのだ。それを裏切ることなど許されない。彼らが見つかれば国のためになるが、誰かに褒め称えられても自分は自分を許さない。
どんな考えがあって秘密にしたのかは解らないが、彼らは賢いから何となくでない、何か理由があることは確かだろう。 そらしていた目をもう一度、三人の方へ向ける。
沈黙が、行き場を無くして漂っている。
窓を開け、ドアを開け、風を通そうか? そうしたら沈黙は、空気と一緒にどこかへ逃げてくれるだろうか? それとも、いっそのこと自分が出ていってやろうか?
誰かドアを開けて、嫌でもフェラルドに「いらっしゃい」と愛想笑いを浮かべさせてやってはくれないだろうか。
どうしていつもならちらほらと客が来るのに今日だけは来ないのだろう。
相手がいないが愚痴ってみる。今日に限っては、運命と神様はかくも意地悪なものらしい。
沈黙はまだまだ出口を見つけられないが、十年以上の時を一緒に過ごした彼らのことを思うと、自然と涙が零れそうになった。
ぺたんと床に座り込み、アンジェリアは天井のランプを見つめた。
それはしっかりと、まだ消える気配も無く光り続けていた。
もう半月ほど前。フェリスとジュリアスがエルフ族の森からミールへと戻ったとき、アンジェリアは家の門を入ってすぐの所で二人を待ちかまえていた。今になって思い出してみても明らかに不機嫌な顔で待っていた。
しかし、今の時間はアンジェリアが心配するほど遅くはなかったし、何かの表立った異変が起こったわけでもない。いつも通りの一日だった。
そして、二人が門を入ってくるなり、
「何があったのか話しなさい」
と、アンジェリアはしかめ面で詰め寄った。
何をしてきたのか知りたかった。
フェリスもジュリアスも不思議そうに戸惑いを浮かべた顔を見合わせる。そして頷き合い、口を開こうとした。
だがアンジェリアはそれを遮って、まず二人を自分の部屋に招いた。こんな所では話せることも話せない。誰かに聞かれたらまずそうな気がしたのだ。直感で。
部屋に着き、アンジェリアに長椅子を薦められると、二人は再び話し始めた。
エレインと再会したこと、妖精界に行ったこと、刻印のこと、これからのこと。
二人は全て話したのだろう。アンジェリアとしては信じがたい話もあったから納得は出来なかったが、とりあえず理解はした。中でも一番ショックなのは、二人が自分の手の届かないどこかへ行ってしまうこと。
自分には近くで見守ることも出来ないのかと思うと歯がゆい。二人は選ばれたのだ。自分では到底追いつくことのできないものに。そして、自分は選ばれなかった。
しっかりと部屋の扉も窓も閉められ、鍵を掛けた。誰にも聞こえることは無いのに、アンジェリアは小さな、囁くような声で言った。
「嫌な予感はしたのよ」
そして、いつものアンジェリアらしくない、今にも泣き出しそうな顔をした。
フェリスもジュリアスも口には出さないが、おかしいと思っているようだ。思いきり顔に出ている。もちろん、何があったかなど自分だって知らなかった。しかし、ただ漠然と「何かあった」と感じたのだ。
自分でもどんな顔をして二人と向き合えばいいのかいいのか解らなかった。
「え?」
アンジェリアは泣き出すわけでも怒り出すわけでもなく、淡々と静かに語り始めた。
「何て言うのかな……昔からそうなんだけど、わかるのよね。ジュリアスが何か変な体験、今の話みたいに異世界……なの? ……そういう所とかに行ったりすると。この前だってそう。アズニオンとかいうのに会ったって言ってた時も、何かあったな、ってわかったのよ」
それは、双子ならではなのだろうか。昔から双子は不思議な存在として見られていた。土地や時代によって不幸の象徴として見られたりもするが、その二人の間にある何かは、どんなに学者たちが考えても解らない。
ぽつりぽつりと呟くような声で話す今のアンジェリアには、いつもの覇気がない。自分の中で渦巻いているたくさんの感情を、淋しさや悲しみを制御するのに精一杯だった。
アンジェリアには未来など見えないが、どんなに、どんなに止めたって、行ってしまうとわかっているから。どんなに誰かが足掻いたとしても、変わらない強い強い運命がある。今、それを知った。理屈ではなく、ただそれを知ってしまった。
「まあ、いいわ」
椅子から立ちあがり、スカートを翻して二人にくるりと背を向け、いつもと変わらない明るい声で言った。フェリスとジュリアスも立ちあがる。
長い付き合いだ。二人になら無理をしているのを見抜かれてしまうであろうことはわかっていた。
「だけど、ちゃんと帰って来なさい……無事でね」
そう言って俯いたまま振り返ると、顔を見せないようにフェリスとジュリアスに近づいた。いつもの強気な態度で自分の弱さを必死で隠しつづけてきた。震えて力の入らない両腕で、出来る限り力いっぱい二人を抱きしめながら一言ずつ、ゆっくりと言葉を紡いだ。
これまで十数年間も一緒にいたが、今ほど優しい声を二人に聞かせたことはなかっただろう。
「だって、ね。いつだって帰る場所はここにあるんだから」
二人には自分の顔は見えないが、そのとき二人の腕の中で小さな声で泣いてしまった。
それからの自分は強かった、ように見えただろう。
強くあろうと思っていた。
時々、淋しそうな顔をする以外はいつも通りのアンジェリアで、いつも通りの三人だった。
「私ならあの丘まで送れるじゃない」
ある日、三人で作戦会議のような話し合いをしていた時のことだ。その日はアンジェリアの部屋だった。
どうやって誰かに不審がられることなくミールを出るか。王族や貴族に生まれれば、城下町くらいならともかく、一人で街の外に出ることなどほとんど無い。
エレインの話によると、ほとんど荷物は必要なさそうだった。それに、持っていく必要のある物がそうたくさんあるわけでもない。それでも最低限の旅支度をしなくてはいけないし、多少は持っていきたい物がある。
アンジェリアはジュリアスとそっくりな、何かを企んでいそうな笑顔をフェリスに向けた。
「あれ……って最近やってないんじゃない?」
ジュリアスが不安げな眼差しをアンジェリアに向ける。
「大丈夫よ」
どこから沸いた自信か知らないが、アンジェリアは自信たっぷりに言い放つ。
「昔よりは上手くいくでしょ。行き先は子供の頃よく遊んでた所の、木の前でいいのよね。大丈夫よ、近いもの」
「でも大丈夫なの? 変な所に飛ばされたりしたら悲惨だよ……」
「何よ。私を信じてないのかしら。だったらお父様にでも頼んでみる? それは出来ないでしょう?」
「あの、何なのかよくわからないんだが」
やっとのことで口を挟んだのだと見える。困惑したフェリスの顔を見て、納得したようにアンジェリアは手をぽんと叩く。
「ああ、そうね。フェリスは知らないのよね」
「だから何を」
「テレポートって解るわよね。術者が知っている場所へなら、どんなに遠くでも行けるのよ。行ける距離は術者の力にもよるけど」
「それは知っている。ヴァルシアさんが使えるな……ということは、今の話し方だと、アンジェ、お前が……?」
心底驚いたような表情で、フェリスがアンジェリアを指差した。少しのけぞって、手は震えている。もし背もたれが無かったら後ずさっている所だろう。
「そういうこと。ジュリアスには出来ないから」
テレポートには、相応の魔力も必要だが特別な適性がいる。偶然その適性がジュリアスには無く、アンジェリアにはあったのだ。
とはいえ適性があるからといって誰もが使えるわけではないし、そもそも適性がある人間の数が驚くほど少ない。
「保証はできるのか?」
「そうねえ。五分五分?」
保証はする、と言って置きながら不安なことを言うアンジェリアに、フェリスの白い顔から血の気が引いた。
もちろん、冗談だ。
「僕は絶対嫌だ。五割は成功するから結構いいじゃないとかお前は言うかも知れないが、五割は変な場所に飛ばされるんだろう!」
投げやりに言ったアンジェリアに、フェリスは叫んだ。テレポートは、失敗すれば術者の知らない場所に飛ばされる可能性がある。アンジェリアならどこかへ飛ばされても自力で戻ることができる。しかし、そればかりはフェリスにもジュリアスにも無理だ。
「あーあ、嫌だわ。ネガティヴ菌感染者はどうしてそんなことしか言えないのかしら。ねえジュリアス」
「……はっきり言って、五割じゃ僕も不安だけど……でも」
「ほら。お前に任せるくらいだったら他の方法を考える」
何か言いかけたジュリアスを遮って、フェリスが
「わがままねえ」
「そう言う問題か?」
「泣きたくなっちゃうわ」
「こっちが泣きたいよ!」
泣きまねをして可愛らしく言うアンジェリアに、フェリスが間髪入れずに叫ぶ。
子供の頃ならまだしも、見た目だけは一人前の男であるフェリスが泣くのを想像すると、どんなに堪えても吹き出すのを止められないくらい愉快だった。アンジェリアは体を折り曲げて遠慮無く吹き出した。肩が小刻みに震えている。
それだけではない。冗談で言っているというのにこんなに真面目に返すフェリスに、笑いが込み上げているのだ。普通、それくらいの判断はつくだろうに。
そんなアンジェリアに、心底不思議そうに尋ねるフェリス。
「何をそんなに笑ってるんだ……?」
「……っ! そんなに本気で言うこと無いじゃないの! 冗談だってば。私だってね、成功率五割の術なんてあなたたちにかけたくないわよ。わかっててわざわざ危険にさらしたくなんてないもの。神の愛し子ジュリアス=ウィンクルの姉を信じなさい」
自信満々にそう言い放つと、二人に向かい合って座っていたアンジェリアは身を乗り出した。
「いい? テレポートの成功率には術者の魔力も関係あるけど、それよりも術者が移動したい場所を熟知しているかってことと、その場所を鮮明にイメージできる想像力があるかってことが一番関係あるのよ」
「……想像力は申し分無いな」
想像力と思いこみの激しさにかけてはアンジェリアは誰にも負けることが無さそうだ。こと恋愛沙汰に関しては、想像を越えた妄想のせいでフェリスも頭が痛かった。フェリスとしては、女は皆そうなのかと思っていた時期もあったのだが、アンジェリアが異常なのだとわかってから久しい。
アンジェリアには何のことなのか自覚はあるのだが反論してみる。
「どういう意味よ。……で、私はあなたたちと同じ位あの場所を知ってるわ。あなたたちほど思い入れが深いわけじゃないけどね。魔力は、今のところフェリスよりは上だし問題ないでしょ」
フェリスは悔しそうに頷いた。アンジェリアはそれを見て苦笑する。少し拗ねた姿は、まるで小さな子供のようだった。
今のところ、と言ったのは他でもない、フェリスがいつか自分を越えることを知っていたからだった。例えどんなに足掻いても、多少力があるだけで、ただの人間であるアンジェリアが刻印の持ち主に敵うはずが無い。そんなことがなくても、刻印など無くてもきっと敵わない。そんな気がする。
「信じてなさい、大丈夫だから」
長椅子の背もたれに寄りかかりながら大きくため息を吐くと、足を組みなおして笑った。意地の悪い笑みでも、冷笑でもない、柔らかい笑みを向かい合う二人に真っ直ぐ向けた。
ジュリアスがフェリスを見ている。フェリスとしては、信じないわけにはいかなかった。というより、信じたくないとは思わなかった。
落ち着いたアンジェリアの笑顔の中には、魔力のようなものが秘められているようだった。
「……わかった」
それを聞くと、アンジェリアは満足そうにもう一度笑った。
「覚悟は良い? 忘れ物とかは無いわよね。そこまで面倒見きれないわよ」
最初の一言はともかく、どこかへ遊びに行くような気楽さでアンジェリアが言った。アンジェリアは、自身の部屋の中心にフェリスとジュリアスを立たせ、指先に灯った光で二人が入るくらいの小さな円陣を深紅の絨毯の上に描いている。
そんなに大きく無いが、丈夫そうな鞄を持った二人は、対照的に真剣な面持ちで頷いた。
「よし! じゃあ、行くわよ」
アンジェリアが元気に言い放つと、両手を流れるように踊らせながら唱えた短い呪文の後、どこからかふわりと青い光が舞い降りた。
弱々しく光る円陣に光が触れると、陣に沿って光の壁が創られていく。次第に強くなる光が、二人の姿を包んでいった。
「元気で帰って来なかったら、承知しないから」
「もちろん」
それこそ言い表せないほどの辛さが体中を走り抜けたが、いつものように笑った。いつものように笑っているつもりだった。
全て掻き消える前に、とアンジェリアはおそるおそる手を伸ばしたが、届く直前に光の余韻さえ消えた。
ずっと手を振ってあげたかった。ずっと笑っていてあげたかった。
手を伸ばさずには居られなかった。
ずっと側に居たかったから。
自分以外誰も居ない、がらんとした部屋の中で床に引きつけられるように座り込むと、自然と涙が流れた。熱くなっていく顔を手で覆うと、箍(たが)が外れたようにとめどなく溢れ出した。
「……ごめんね、笑っててあげられなくて」
誰に言うわけでもなく、かすれた声で呟いた。
「さよならなんて、言わなくてよかったよね……」
言ってしまったら、もう二度と会えない気がした。信じ続けることしかできない自分にとって、とてつもなく恐かった。
しかし、悲しみに浸っている間もなく、慌しい足音が部屋の外に響いた。近づいてくる足音に、慌てて立ち上がり、乱暴に涙を拭った。その時、ドアが勢いよく放たれた。
「……お父様」
そこには、ジュリアスにも自分にもそっくりな青年が立っていた。年齢を考えれば青年どころか中年の一歩手前なのだが、それは驚異的な魔力による若作りのなせる技だ。
「アンジェリア、今、何を……?」
法力が働いたのを感じて急いで来たのだろう。息は粗く、肩が大きく上下していた。広い屋敷を駆けて来るのには体力が足りないようだった。
「何のこと? お父様」
アンジェリアは何食わぬ顔で笑った。
その笑顔にあっけにとられたのか、ヴァルシアは何も言わなかった。
思い出すと泣きそうになるが、精一杯こらえた。油断すると、また涙が出そうになる。涙が流れた辺りが筋になって、なんだか引きつっているみたいだった。
何を話していたのか全く耳に入らなかったが、フェラルドたちはいつのまにか談笑していた。しかもテーブルの上にはお茶器まで並べられている。こっちはうしろめたい気持ちになりながらもフェリスたちのことを思って泣いていたというのに、どこまでのんきなんだ、とアンジェリアは怒りながら呆れていた。
明らかに「泣いていたな」と思われるような顔をしているだろう。そんな顔を手のひらで叩くと、本棚に向かって笑い、表情を引き締める。
そして、お茶会中の三人へ近づくと、アンジェリアは腕を組んで不機嫌そうに言った。
「何をのんきにお茶会なんてしてるのよ」
そして机に広げられた何枚かの紙を集めると、何やらいらいらするのでフェラルドに苦労して欲しくなり、本棚から取り出した本は片付けずにそのまま置いておくことにした。多少ふらふらした足取りで出入り口に歩み寄り、扉に手をかける。
「それじゃ、私は帰るわよ」
扉を開けると、とりつけられたベルの乾いた音が小さく響く。ひっくりかえりそうになるくらい大きく伸びをすると、前庭の手入れをしていた老婦人が柔らかく微笑んだ。
すれ違う若い男女の二人組も、恰幅と血色のいい男性も、皆、笑っていた。
彼らは何も知らない、何も知らないから笑っていられる。幸せそうに、しかし心のどこかでその幸せを確かめ合いながら。
自分は知っているから不幸せだとは思わない。それでも、知っているから幸せだとも思わない。どちらも幸せで、それでいて不幸せだ。
そしてまた、少女が通り過ぎて行く。
時々、自分は判断を誤ったかもしれないとも思う。
もしかしたらあの時、なりふり構わず引き止めていれば、今もここに二人はいたかもしれない。いや、いただろう。
止めなかったのはどうしてだろう。話を聞いた時点で、危ないんだとわかりきっていた。内戦の絶えない戦場に、彼らを送り出すような気分だった。
今思うと、導かれたような――誰かに導かれたような気がする。勝手に体が動いた、勝手に「体を動かされた」ような。
しかし、起こってしまったことは仕方ない。しかもどうにかできるものでもない。
だから決めた。アンジェリアの心は決まっていた。自分にできることはひとつしかない。いつかここにあの二人が、皆が帰ってくる時まで、信じて待っていることだけだと。
そして、彼らがここに帰って来た時、迷わず抱きしめてやれるように、今よりも強くなろうと決めた。
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