Tele 10
ファイズは白いドレスの長い裾を引きずって歩く。そもそも、彼女が歩いているのかすら解らない。ファイズには羽や翼はないが、浮かんでいるのかも知れない。その証拠に、裾は引きずられているはずなのに、土や草の汁で汚れている様子は全くない。
『扉』を離れてからずっと、ファイズを言いくるめてついて行く許可を得たアウリールを含めた8人が、ファイズに先導されて歩いて行く。
ファイズの隣にはエレインが並んで、よく聞こえないが何か話しながら歩いている。
アウリールはファイズの隣に行きたかったようだが、ファイズのひと睨みで引き下がった。今は、なぜか懐かれてしまったらしいアルフィードと一番後ろで手を繋いでいる。時々、心配そうにフェリクールが弟を見るが、そんな心配をよそにアルフィードは楽しそうだ。
アウリールは実に子供が好きらしい。
フェリスは、なかなかに珍しいアルフィードの笑い声を聞きながら、アウリールは妖精界での『いい父親』の基準がどこにあるのか分からないが、もし人間界にいればいい父親になるだろうなと思い、忍び笑いを抑えた。
フェリスは前を見た。
前に並ぶファイズとエレインは、ほぼ同じ背丈。だが、『妖精王』の名に相応しい威厳のためか、大きく、というよりさも当たり前のようにそこにあるかのように自然で、大海のように落ち着いた、大きな存在感がある。
それはたとえ後姿でも同じだった。真後ろを歩くフェリスは、明らかに自分のそれより小さく細いファイズの背中をじっと見つめていた。
その様子をジュリアスはじろじろ見ているのだが、フェリスは気付かない。
今からかっても構わないのだが、ジュリアスは後で思う存分やってやろうと思い、からかうネタが出来たことを満足そうに笑って、とりあえず黙っていた。
「着きましたよ」
ファイズはぴたりと足を止め、短く言って視線の先を指差した。
その時、もう太陽は真上よりかなり傾いていて、日が暮れるまであと一歩というような時間だった。だが、空の色は夕焼けにはまだ遠い。
人間界からこちらに来たのが昼過ぎ頃だから、そんなに時間はたっていないのだが。
そこには、確かにファイズの言う通り宴の席が設けられていた。
ただ、その場所は普通ではなく、深い森に囲まれた湖に浮かんでいる小島の上に、お椀型の屋根を柱にかぶせたようなものが建っていた。そこにある、白い円卓の上に果物を中心とした食べ物や酒――特にワインが多く並べられていた。
おおよそ人間界では再現ではない、『聖なる』という言葉がよく似合う光景だ。
あるいは、場所だけなら再現できるかも知れないが、清浄な空気や、今ここにはっきりと見えているのに薄もやの中にあるような神秘的な雰囲気を再現することはできないだろう。
ファイズは湖を見渡せる場所で足を止め、一瞬、円卓の回りを動き回る人々の様子を見てから一同を振り返った。
「さあ、準備も整っているようですし、行きましょう」
小島に架かっている橋を指してファイズが歩き出した。既にたくさんの人々が椅子に掛けて待っている。
背は低く、とんがり帽子をかぶり、ひげを生やした鍛冶を得意とするドワーフ。
種族はよく分からないが、ファイズやアウリールのようにほとんど人間と変わらない容姿をした者たち。
青い肌だったり、腕が六本あったりする奇怪な形の、しかしその瞳は穏やかな者たち。
「席にお着きください」
ファイズは凛とした、よく通る声で言った。自分は立ったまま、まだすわらない。
全員が席に着いたのを確かめると、ひとつ小さくせき払いをして、口を開いた。まだ料理を食べ始める者も酒盛りを始める者もなく、妖精王の言葉に耳を傾けた。
「改めて、ようこそ。精霊にして人の子の器を持つ方々。今日は貴方がたのために、ささやかながら宴の席を設けました。どうぞ、今日一日、存分におくつろぎ下さい」
ここで挨拶は終わりかと思いきや、まだ続きがあった。
「人間界では、妖精に出された食べ物や飲み物を口にしてしまうと帰れなくなるという言い伝えがあるようですが――お気になさらずに。何も心配はいりません。
では、挨拶はこのくらいにして。みなさん、宴をお楽しみ下さい」
ファイズがそう締めくくると、わっと声が起こり、誰もが一斉に動き始めた。
フェリクールやアルフィードは見たことのないたくさんの食べ物を前にしてどれから手をつけようかと迷っていた。その上フェリクールは酒に手を出そうとしていたが、それを見たフェリスが慌てて止めた。
ラディウスは早くも偶然隣にいたドワーフと酒盛りを始めている。どうやらドワーフは酒豪らしく、度の強そうな酒瓶をどんどん開けても平気そうにしている。
フェリスの右隣ではアウリールがファイズに話しかけているが、適当にあしらわれていた。左ではジュリアスが妙齢の女性たちに囲まれて酌を受けている。ファイールでは十五になれば酒が飲める。ここでは国の法律など無関係なのだが。
「何やってるのさ、フェリス。ほら、呑みなよ。おいしいよ。ね?」
ジュリアスがそう言うと、周りの女性たちが満面の笑みで「ねーっ!」と声を揃えた。
フェリスは呆れてため息を吐いた。
ここを離れないと倒れてしまいそうだ。どうもにぎやかな所は好きじゃない。
それに周りの会話が否応なしに耳に入ってくる。
――ここは「トゥル・ティーダ」っていうのよ。「祭の場所」って意味ね――
トゥル・ティーダ。
フェリスは覚えておこうと思った。
もしも迷ったら、「トゥル・ティーダ」の名前を出して訊けばいい。もしその辺りに誰か居れば、だが。
気付かれないようにそっと席を立つと、どこか静かな所へ行こうと歩き出した。
最初のうちは誰かが追いかけては来ないかと後ろを振り返ったり警戒していたが、しばらくすると開放感に支配されて、そんなことは気にせずに歩いていた。
傾きかけてはいても日の光が眩しい。
そこらじゅうに生えている木々が光を阻んでくれているのだが、それでもまだ眩しかった。
迷うといけないのであまり遠くへは行けない。とりあえず喧騒から逃れられて、見つからなそうな場所を見つけた。
木に囲まれた広場のような場所だ。
切り株に腰を下ろすと、少し気が楽になった。
その時、がさごそと茂みの向こうから音がした。
誰か、来る。
フェリスは舌打ちをして、考えを巡らせた。
もう少し注意していれば気付かれる前に逃げられたのに――。
ここは安全なのだと分かっていても、十分に刷り込まれた騎士としての教育のためかそう思ってしまう。初対面の相手には警戒するに越したことはない。
「誰だ?」
とりあえず声を張り上げ、見えない誰かに尋ねる。
風が、吹いた。
背の低い木々を掻き分けて、背の高い影が姿を現した。
「お初にお目にかかります、精霊王。私はフェンリル」
鈴を振るような声。
貴族や王族の貴婦人特有にも似た優雅さを湛えた笑みを浮かべて現れたのは、背の高い女性だった。
ゆるいウエーブのかかった明るい金髪が後ろで優美に結い上げられ、爽風に撫でられ、揺られている。エメラルドグリーンの瞳が柔らかな木漏れ日の中で萌える。
こんな所にいるということは、彼女は妖精なのだろう。
しかし、今、彼女――フェンリルはフェリスの姿を目に止めると、迷わず「精霊王」と呼んだ。
本来ならば、どうしてそれを知っているのか疑わなくてはならないのだが、不思議と警戒しなくてもいいような気がしたので、フェンリルに対する構えを解いた。
「精霊王は……止めて下さい。フェリスでいいですから」
フェリスは無意識に、フェンリルの丁寧な言葉使いにつられて、いつもはあまり使うことのない丁寧語を使ってしまった。
「では、フェリス殿。どうですか? 妖精界は」
「いい所だと思います。正直、僕たちの世界よりも」
「ありがとうございます。ファイズ様も喜ばれます」
『精霊王』の呼び名を照れながらも嫌がるフェリスに、フェンリルはにっこりと笑って尋ねた。フェリスの答えに嬉しそうに頷いた。
「でも、どうなさいました? 宴もたけなわ、美しい女子(おなご)の酌もありましょうに。もしかして、お料理がお口に合わなかったとか?」
歌うように問うフェンリルの言葉に、フェリスは決まり悪そうな顔で後ろ頭を掻きながら答えた。
「いえ……そういうわけではなくて。どうも、にぎやかな場所は苦手で」
「そうでしたか。それでここへ」
落ち着いた優しい微笑みを浮かべて、泉に目をやる。
「お邪魔でなければ、お話でもいかがです? 精霊王、というより貴方自身に興味があるんです。それに、人間界のことにも」
フェンリルは人差し指を立て、ウインクをしながら可愛らしく笑った。
「構いませんが……」
「まあ! よかった」
手をぽんと叩くと、フェンリルは目を輝かせてフェリスを見た。
「知りたいことが色々あったのです。でも、そんなに頻繁に私たちが人間界に行くわけにはいきませんから……世界の危機だというのに不謹慎かも知れませんが、こういう時を待っていました」
エレインとは違い、フェンリルは人間界にあまり詳しくはないようだった。もちろん、エレインも最近のファイールについてはよく知らないだろうが、ファイールで生活していた時期もあったから彼女よりは知っているだろう。
でも、なぜエレインは人間界にあれだけ長く(と言っても数ヶ月ほどだったが)いられたのだろう?
タイミングを見計らって後でフェンリルに聞いてみようと思い、フェリスは話し始めた。ファイールでの自分たちの生活や、学習院のこと、伝承のこと――。
フェンリルもエレインと同じように実にものめずらしそうに話を聞いていた。彼女がエレインと違ったのは、フェンリルは探求心旺盛な女性で、ひとつのことを話すとそれについてもっと深い、専門的とも言えることを知りたがるということ。そして、彼女独特の視点から見た鋭い質問をすることだった。それには、さすがのフェリスも答えに窮して、答えに戸惑うこともあった。
「フェリス殿は博学でいらっしゃる。たくさんの知識をお与え下さったこと、心から感謝いたします。私からも何か……そうだわ、フェリス殿は『双子の月』の伝承はご存知ですか?」
フェンリルは形のいい顎に手を当てて、暫し考える仕草をしてから微笑んだ。
人間界には『双子の月』などという伝承はない。フェリスは素直に首を横に振った。
「いいえ、聞いたこともない。人間界にはないのでは?」
「ええ、そうです。それは妖精界だけのもの。ですが皆が知っているのはその伝承の表だけです。私が今お教えしようとしているのは、その奥」
「奥、ですか?」
「そう。隠された真実」
「……それは、貴方だけが知っているんですか? それとも他に誰か?」
隠されているのだとしても、一人しか知らないとは限らない。ためしにそう尋ねて見たた。
フェンリルは無言で首を横に振った。フェンリル以外の誰も知らないことなら、今聞いておかなければ二度と聞くことは出来ないかもしれないと思った。
フェリスは姿勢を正し、真面目に聞くことにした。
「人間界に月はひとつしかありませんね? ですがここにはふたつの月がある」
「それが『双子の月』ですか?」
「そう。夜になれば見えますよ。その月は、二人の女神の化身したものだと言われています。ひとりは知識の女神シャリシード。もうひとりは秩序の女神イスト。混沌としていたこの世界の理を彼女たちが再び調えたと言われています。伝承として広まっているのはここまでです」
微笑を凛としたものに変え、知識欲旺盛な、知者の表情になる。
「ですが真実は、違う」
真実。
知りたい。
自分たちの存在が数多の謎に包まれているように、この伝承にも、誰も知らない真実がある。
フェリスは息を飲んだ。
「その二人の女神は、元は妖精でした。遠い昔、罪を犯し、その償いのために神となり、月へ繋がれた二人の女神」
それを聞いてフェリスは疑問に思った。
神とは徳の高い存在だとずっと思っていた。
罪を償うために神となる? それは、罰だろうか?
どこを見ているのかよくわからない遠い目で、フェンリルが問いかける。
「どう思いますか? それは、彼女たちにとって不幸せなことだったと思いますか?」
「それは……」
フェリスは答えに迷った。
妖精にとっても人間にとっても、変わりなく尊い存在――神。
贖罪のためとは言え、尊き神となった彼女たちは幸せだったかも知れない。たとえ月に繋がれても。
しかし、果たしてそうだろうか?
神になれても彼女たちは自由を奪われた。妖精であった時には当たり前のようにそこにあった自由を。
「真実はいつも隠されています。ですが、一握りの"誰か"は知っているものです。そうでなければ、どこかに知るための手がかりがあります。そう、必ず。
道はいつでも残されているものです」
「あなたは、知っているんですか? 真実を。手がかりを」
フェリスが固い表情で、しかし答えを熱望する瞳でフェンリルの肩を掴んだ。
思いのほか華奢なフェリスの力が強いのに驚いたが、フェンリルがひんやりとした白い手で肩を掴んでいる腕に触れ、落ち着いた柔らかな微笑でフェリスの緊張をほぐした。
「私が知っているのはたくさんの可能性のうちのひとつだけです。貴方の知りたい真実は、知らない。私に分かるのは、貴方たちにはまだ、光があるということ。数多くの闇の中に、一条の光があるということ」
フェンリルは諭すようにゆっくりと語りかける。段々と、高ぶっていた心が解きほぐれていく。
フェリスはフェンリルの肩を掴んでいた手を離した。
「……ありがとう」
フェンリルはにっこり笑って、いつかエルフの集落で見たルーフォとエレインの誓約と同じ、左手を胸に当てる仕草をした。
どうやらこの動作は誓いを立てるためのものだけではないらしい。
「ところで、フェンリル……『双子の月』の話だけど、彼女たちは幸せだったのかあなたは知っているのか?」
いつもの口調に戻ってしまったので慌てて口を抑えるが、気を悪くした様子もなく、少し淋しそうに笑うと、フェンリルはただ静かに頷いた。
「ええ、彼女たちは『幸せだ』と言っていました。ですが私は……それが彼女たちの本心だとは思いません」
「え?」
「それが本心なら、もし本心だったのだとしたら、なぜあの時二人が泣いていたのか私には分からない……」
それだけ言うと、両手で顔を覆ってしまった。
フェンリルは「彼女たち」とまったくの他人のことを語るような口ぶりで話してはいるが、これは違う。これは本人が深く関わっている時の話し方だ。
その考えを確信に変える言葉をフェリスは聞いた。フェンリルは小さく「ウルディネ」と――「姉さん」と呟いたのだ。
神殿語に似た音の響きだった。古いのか、それとも神殿後の流れを汲む独特の言葉なのか。本当の意味は「姉さん」ではないのかもしれないが、それに近いものなのだろうと解釈した。
『双子の月』のどちらかか、またはその両方か。それがフェンリルの姉ということだろうか。
言葉の意味を理解してしまったフェリスはかける言葉も見つからずに外見上は平然と、しかし心の中ではどうすればいいだろうとおたおたしながら黙っていた。
「……ごめんなさい、私……」
フェンリルは顔を上げぬまま何度も「ごめんなさい」と繰り返した。
遠く月に繋がれた姉への謝罪なのか、それとも今ここにいる自分への謝罪なのか、それはわからなかったが、フェリスは黙っているしか出来なかった。
「フェリス殿」
数分が過ぎただろうか。フェンリルは突然顔を上げてフェリスの名を呼んだ。
エメラルドの目は大きく見開かれている。
「はい?」
「宴席へ戻られた方がよろしいかも知れません。貴方を待っている人がいます」
何かを『見た』のだろうか。神下ろしをした時の巫女のように、茫然としていてよくわからなかった。次の言葉は、わけがわからないなりにフェリスを立ち上がらせるのに十分な言葉だった。
「金の髪の……あれは、エルフ族?」
「すいません。僕、行きます」
自分を知っているエルフ族は恐らくここに二人しかいない。アウリールとエレイン。
フェンリルは「エルフ族」と聞いた瞬間立ち上がったフェリスを見て、微笑ましくて思わず笑いながらフェリスを送り出した。
「ええ、早く行っておあげなさい」
笑顔で手を振り、フェリスがもう見えなくなってから、茂みの中から衣擦れの音がした。フェンリルは警戒することもなく振り返る。
茂みから姿を現した茶髪の青年はフェンリルの隣に腰を下ろす。
「今のが精霊王? ずいぶんとかわいらしいな。まだ子供じゃないか」
そう言うと、青年はフェリスが走り去った方向に好意と好奇の入り混じった視線を向けた。
「まだあの方は年上なほうです。もっと小さな、ルーフォくらいの見た目の子もいるという話ですから」
「ルーフォ? ああ、あの。あれくらいとなると、人間では子供もいいところだな」
「興味があるなら行けばいいのですよ。まだまだ宴は終わりません。笛の音でも聴かせておあげなさいな。私は行きますよ」
フェンリルは青年の腰にある細長い袋を指差し、そして立ち上がった。
「じゃあ、行こうかな。他の精霊さんたちも見てみたい。君のお気に入りも」
「お気に入り? まあ、そうですね。あんなにたくさん人間と話したのは久し振りです。他の人間とは違って嫌な感じはしませんでしたし。多分、他の精霊方もそうだと思いますけど」
「それは君の希望的観測? 裏切られて本格的に人間不信に陥っても知らないよ?」
からかうような響きを持った声に、少しむくれてフェンリルが答える。
「別に構いません。その場合は私が悪いんです。信じてみたいと思うような方だったんですもの。そもそも私は人間不信じゃありませんよ。姉さんを傷付けたのと同類の人間は嫌いですけど。……でも本当に綺麗。綺麗なものにはいろんなものが惹きつけられますけれど、きっとあの方のように本当の綺麗さを持った方が選ぶのは、本当に綺麗な方たちだと思います」
フェンリルのころころと鈴を転がすような声に、青年は意地悪く言った。フェンリルは堪えていないのかにっこり笑って答えた。
「それも希望的観測?」
「そうですね。……シルヴィオ、行きますよ」
フェリスは急ぎ足でトゥル・ティーダに向かう。背の低い木が邪魔をして、全速力で走れなかった。
エレインの事をフェンリルに聞き忘れたのはしまったと思ったが、誰か他の――例えばファイズに聞けばいいと、振り返りそうになった足を前進させた。
アウリールや他の妖精たちに笑顔で酌をしていたエレインだが、フェリスの姿を見ると律儀に酒瓶を円卓に置き、酌をしていた(見た目)中年男性に謝りを入れてからフェリスに駆け寄る。
駆け寄ってきたまではよかったのだが、エレインはフェリスにそのまま抱き着いた。勢いがついていたのでフェリスは思わずよろめくが、もつれて倒れるほどではなかった。
体勢を立て直してから、フェリスはやっと気付いた。エレインに抱き着かれていることを。
そのまま硬直して、動かなくなる。
「フェリス! どうしたのかと思ったわ、心配したんだから……」
泣きそうになりながらそう言うエレインは可愛い。
可愛いのだが、フェリスには女性に対する免疫がなさ過ぎる。身内やアンジェリアでない限り、触れられでもしたらかなりの反応を示すのに、相手はエレインで、しかも抱き着かれたりしてしまっているのだ。
皆にやにやしたままで(アウリールとファイズは別に気にすることもなく料理に手をつけている)止めようとしないのでジュリアスが親友を哀れに思い(ある意味だと幸せなのだが)、エレインの肩を叩いた。
フェリスは耳まで赤くなっているのだが、ジュリアスが止めに来るまでエレインはフェリスに抱き着いたままだった。
「いや、あのね。別にお熱いのはいいんだけどね、別でやろうよ」
「え?」
エレインはジュリアスに肩を叩かれても何がいけないのか分からない様子だった。それでもフェリスから離れた方がいいと言っているのは分かったらしく、腕を解いた。
ジュリアスはその様子を見て、少なくともエレインにとっては「抱き着く」という行動は何てことのない、挨拶みたいなものなのかもしれないな、と思った。フェリスをちらりと横目で見ると、さすがに放心状態からは抜けているがまだ赤いままだ。
これは前途多難だな、と思いはしたが、それを口には出さなかった。
「エレイン、戻っておいで」
アウリールに呼ばれて、エレインはスカートを翻して駆けて行った。
残されたフェリスとジュリアスも歩いて行く。その途中、ジュリアスはフェリスの肩を無言で叩いた。
フェリスは席に着くと、アウリールに小声で話しかけた。
「どうして止めてくれないんですか。ジュリアスが来なかったらどうしようかと思いましたよ」
フェリスは明らかに怒っているのだが、アウリールは何食わぬ顔で答えた。
「だってフェリス君。アレはエレインにとって本当に何でもない、例えて言うなら握手とかみたいなものだからだよ。まさか挨拶を止めに行くわけにはいかないだろう?」
「アレ」とは抱き着いたことだろう。意地の悪さなど欠片も見せない笑顔でそう言うと、また料理に手を出す。
こっそりそれを聞いていたジュリアスは、「当たったな」と呟いた。隣に居たラディウスに聞かれたが、何でもないと笑ってごまかした。
「ファイズ様、私たちの座れる席はあるかしら?」
「フェンリル!」
思わず叫んでしまった。
そこにいたのは波打つ金髪とエメラルドの瞳――フェンリルと、見覚えのない茶髪の青年だった。
「何だフェリス。知り合いか? 男連れだけど」
茶々を入れたのはラディウスだ。こいつらはどうしてこうも自分をからかうのが好きなのだろうと思ったが、ラディウスやジュリアスに聞けばこう答えるだろう。フェリスは純粋だから反応が楽しいのだ、と。
「ラディウス!」
「へいへい」
肩をすくめて返事をすると、ラディウスは今まで酌を交わしていたドワーフに酒を注いでもらいながら愚痴を言い始めたが、そんなことをいちいち気にしていたらきりがない。
そんなやりとりを見てフェンリルの隣に居た青年が笑っていたので、恥ずかしくてできることなら逃げ出したかった。もしかして、さっき抱き着かれていた所から見ていたのかも知れない。
「ようこそ、精霊がた」
フェンリルと青年は、そう言って一人一人に会釈をして行く。
「こんにちは、僕はシルヴィオ。……ファイズ様。彼らの歓迎に、笛を披露しようと思うのですが」
シルヴィオは別に顔にさして特徴があるわけではなく、髪は平凡な茶色。目も、ファイズのように深紅だったりするわけではなく深緑という、ほとんど人間と同じ容姿をしている。それに、飛びぬけて背が高いわけでも、異様に低いわけでもない。それなのに、人懐っこい笑みが強く印象に残る。
シルヴィオは声を張り上げ、ファイズに向かって言った。ファイズは静かに頷く。
円卓の、誰も座っていない辺りにまわり込むと、腰にくくりつけられている袋から小さな銀製の横笛を取り出す。
唇を歌口につけ、目を閉じる。少し間を置き、緩やかにメロディーが流れる。
「彼は笛の名手だ。弓もだけどね」
聞いてもいないのにアウリールが語り出す。
なるほど。確かにシルヴィオは稀に見る天才。フェリスはそれほど音楽に詳しいわけではないが、耳はいい。
ウィンクル家の屋敷に行くと、決まってアンジェリアが新しく覚えたピアノやらヴァイオリンの曲をよく弾いていた。
「アンジェちゃんも上手かったけど、シルヴィオはもっと上手いね」
鑑賞の邪魔にならないよう、ジュリアスが小声で呟いた。どうやらジュリアスも同じようなことを考えていたらしい。
ある者は料理や酒に手をつけることなく聴き惚れ、またある者は笛の音を酒の肴に、と小人数で静かに酒を酌み交わす。
こうして、時間は過ぎて行った。
宴もお開きとなり、ファイズの屋敷に泊まることになった。これからも多分そうだろう。
なぜかアルフィードに懐かれてしまったアウリールはファイズの屋敷まで着いてきたが、ファイズにすげなく追い返されて帰って行った。淋しそうにしているアルフィードに、「たまには遊びに来るよ」と言って扉の奥に消えた。
ファイズ以下、フェリスもジュリアスもラディウスも「来なくていい」と思ったが、アルフィードが可哀想なので何も言わなかった。
エレインに言わせれば「長様が一番かわいそう」らしいのだが、さすがに誰もアウリールに同情はしない。
フェリスとジュリアスは空色、フェリクールとアルフィードは白、ラディウスは一人部屋で深緑の扉の部屋をそれぞれ割り当てられ、鍵を渡された後。
「それはそうと……フェリス、何でかなあ」
にやにやして、前を行くジュリアスが振り返った。
嫌な予感がする。
こいつがこんな顔をする時にはろくなことがあったためしがない。大体、自分をからかおうとしている時だ――フェリスは思った。
「今日は妖精王殿下ばっかり見てたよね。やっぱり綺麗な人だし、見惚れてたとか?」 フェリスの隣――エレインの後ろにいるジュリアスが悪戯っぽく笑った。ファイズやエレインには聞こえないようにごく小さな声だ。
小さなため息の後に、フェリスは呆れた顔でジュリアスを見た。
「見惚れてて欲しいか?」
フェリスが尋ねると、ジュリアスはいつもの音量に戻って言った。
「うん、まあね。面白そうだから。だってさあ、どうするのさエレ……いたっ!」
最後まで言いかけたジュリアスに、フェリスはだいぶ低い位置にある頭をめがけて手刀を放った。
誰か居たりしないか、きょろきょろと辺りを見回す。誰も居ないのを見てホッと一息つくと、ジュリアスが頭をおさえてうなっている。
フェリスとしては十分手加減したつもりだったのだが、ジュリアスは涙目だ。
「……何するんだよ。痛いじゃないか」
――いつもならジト目で睨んで来るだけで殴ってくる根性なかったのに。
そうは思ったが、無言でジュリアスを睨み続けるフェリスを見て、言い過ぎたかとジュリアスが諦めた。
「ああ、もう、僕が悪かったよ。でもいいじゃないか、少しくらいっ」
ジュリアスは腕を広げてそう言うと、ぷいっとそっぽを向いてむくれてしまった。
わざと足音を大きく響かせて螺旋階段を上っていく。
そのまま階上の、ファイズにあてがわれた部屋まで行ってしまいそうな勢いだ。フェリスは大きく息をついて後を追いかけた。
「……ジュリアス」
もとはと言えばジュリアスのせいなのに何か変だと思いながらも、ジュリアスの機嫌が悪いままではなんだか気分が悪いので、フェリスはジュリアスを宥めにかかった。
フェリスが来るのを待っていたのかも知れなかった。ジュリアスは、家の裏口よりも小さな空色のドアの前で、ノブに手をかけて立ち止まっていた。
「……でもさ」
ジュリアスは自分からそっぽを向いておきながら、息を吐くように、ごく自然に口を開いた。
フェリスはそれを聞き逃さなかった。
言葉と同時にノブを回して部屋に入る。フェリスもそれに続いた。
気まぐれな猫のようだ。さっきまでへそを曲げていたかと思ったら、何もなかったかのように話しかけてくる。気位の高い、でも憎めない白銀の猫。
フェリスは無意識に苦笑いしたが、ジュリアスはそれに気付かずに話し続ける。
その時、ふと違和感を感じた。いつも活き活きとして快活。そんなジュリアスが、今はどうだろう。どこも見ていないような、澄みきった、そして虚ろな目でどこか遠くを見てぽつりと呟くのだ。
ジュリアスは部屋の中にある二つのベッドの、窓際にある方に座ると、少し振り返って窓の外を見た。
フェリスももうひとつのベッドに腰を下ろし、ならって外を見る。星が綺麗だった。フェンリルの言う通り、空には月は二つ。陽の光を反射していた木々は、今度は月光を受けとめ、仄かに光っている。
「本当に綺麗だよね、ここは。空も、木も――全部。ここは安全な場所だよ。平和だからこんなにも綺麗なんだ。でもどうだろう。今のミールは」
低い、沈んだ声でジュリアスは呟く。
「陛下は狂王と呼ばれ、王宮の深部は――平静を装っているけど、ひどい混乱状態だ。まだ城下町にその被害は出ていないけど、それも時間の問題」
何かを堪えるように、ジュリアスは手に力を込めた。服に皺が寄る。
そして、小さく、弱々しく呟く
「……僕たちはここにいていいのかな」
ああ、そうか。
家族を危険な場所に置いて。自分たちはこんなにも平和な場所に逃げて。
自分を、許せないと。
「それなら、何のためにお前はここに来た」
フェリスの言葉に、ジュリアスはぴくりと反応した。
「アウリールは"来て欲しい"と言った。でも、"絶対に来い"とは言わなかった。そこでお前は選べたはずだ。ミールに残るか、ここへ来るか」
「でも、ああ言われ……」
「"ああ言われたら引き下がれない"なんていうのはただの言い訳だ。お前が心から家族の側にいたほうがいいと思ったなら、つまらないプライドと、天秤にかけるまでもないだろう」
ジュリアスが何か言いかけるのを遮ると、フェリスは早口でまくし立てた。
普段はあまり喋ろうとしないフェリスの言葉は、いつもの口数が少ないだけにずっしりと重みを帯びている。
ジュリアスは押し黙り、泣きそうな顔をして俯いた。
「……君に諭される日が来るなんて思っても見なかったよ」
しばらく俯いたまま、外した指輪を手の中でもてあそんでいたが、フェリスの顔を見てにやりと笑った。フェリスはジュリアスの憎まれ口を聞いて少し安心した。
安心するための憎まれ口とはおかしなものだと思い、苦笑する。
「お前はそうでなくちゃな」
「なにそれ。……アンジェちゃんといい、僕といい、フェリスってマゾ?」
「おい!」
今度は飛んできた手刀を軽く避けて、部屋の中にジュリアスの甲高い笑い声が響いた。
そう広くもない部屋でいつまでも逃げ回るのは大変なので、ジュリアスは勝手に窓際のベッドを自分のものと決め、荷物をベッドの上に置いた。どさっと音を立ててベッドに座り込む。
本当はフェリスも窓際がよかったのだが、早い者勝ちだ。それにジュリアスに何を言っても聞くまいと諦めてもうひとつのベッドに荷物を置いた。
「そういえばさ、僕たちはアンジェちゃんに協力してもらってここに来たじゃない」
「ああ」
ジュリアスに言われて、事情を知っているアンジェリアはともかく、親や講師たちは今ごろどうしているだろうと思った。
アンジェリアは心配しているだろうが、それと同じくらい信頼してくれていると思うので慌てふためいたり、ましてや自分たちがここに行ったことを白状したりはしないだろう。なんだかんだ言っても、フェリスはアンジェリアを信頼している。もちろん、弟であるジュリアスも同じように。
ただ、フェリスたちが妖精界にいると知ったところで人間界からどうにかできるようなものでもないだろうが。
「でね、ラディウスはそう難しくもないと思うんだ。あの人成人してるし、見聞の旅に出る、とか何とか言っとけばどうにでもなると思うんだよね」
「だろうな。あいつのお父上はなかなか押しに弱いし。その上子煩悩と来た。頼みは断れないだろうな」
「そうそう。よくあれで伯母さん捕まえられたよね……ってそれはともかく。じゃあフェルとアルはどうやって城を出たんだろう?」
「そういえば。オーウィンに協力してもらったとか? ……いや、だめだな。あいつは気が弱い。上に問い詰められればすぐ吐く」
すぐにオーウィンの名が浮かんだが、フェリスは頭を振った。アルフィードは幼いが、頭がいい。機転も利く。考えればすぐわかるような欠点にアルフィードが気付かないはずがない。
「聞いてみよっか」
「行くか」
二人は意気投合して、スカイブルーに塗られた扉を開けて真っ白な扉――フェリクールとアルフィードの部屋を目指した。
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