随想三国志
孫呉政権と黄祖![]()
孫策が江東に勢力を拡大する際、多くの勢力を敵にして戦いましたが、その中でも大きな存在であったと思われるのが黄祖です。黄祖は劉表と親しい関係にあったらしく、「劉表が従士(おい)の劉虎ら五千の部隊を派遣して、黄祖は彼らを先鋒にしていた」と見えます。(『孫策伝』注引『江表伝』)劉表にしてみれば、長江下流でやかましい孫一族に対する防波堤として、黄祖を利用していたのでしょう。
孫堅は黄祖に殺されたので(『孫堅伝』、一説には呂公にやられた)、孫策が仇討ちと称して出兵したのは当然と言えば当然ですね。しかし仇討ちといった心情的な動機だけではなく、孫氏にすれば、長江上流をかためなければ自分たちの勢力が安泰になりませんでした。そうした戦略的な見地から最も明快に黄祖討伐を構想したのは魯粛だったようです。曰く「北方は多事であるので、(まずは南方の)黄祖を除き、軍を進めて劉表を討伐して長江流域を征圧し、それを拠り所として帝王を号して天下を狙う事こそ、高帝(劉邦)がなした大業というものです」(『魯粛伝』)。余談ですが、地方に割拠した後、天下を狙うという構想は、甘寧も似た事を述べており、諸葛亮の天下三分の計とも通じますね。中原が荒廃していたので、こうした戦略が比較的現実味を帯びて論じられていたのでしょう。
孫策の後を継いだ孫権も黄祖と激しく争いました。孫策存命中の建安四年(199)を手はじめに、八年、十二年と戦い、建安十三年(208)にようやく黄祖を討って終止符が打たれました(『孫権伝』)。黄祖の勢力が大きかった事や、劉表のバックアップがあった事もさることながら、孫氏がなかなかこれをうち破れなかったのは、周辺にも反孫氏の勢力が数多く存在していたためのようです。黄祖討伐に関連するめぼしい記述だけでも、
○孫策が西に軍を進めると、広陵太守の陳登が厳白虎を煽って孫策の背後を脅かさせた。(『孫策伝』注引『江表伝』)
○呉と会稽の二郡を平定した孫策は、廬江太守・劉勲と江夏太守・黄祖の征伐をして、その凱旋の途中で劉ヨウが病死したとの報を聞くと、豫章に軍を進めて平定した。(『孫賁伝』)
○黄祖を討ち、軍をかえしてハ陽を討伐した。(『韓当伝』)
○建安八年、孫権は黄祖討伐の軍を西に進め、その水軍を打ち破ったが、まだ城を落とす前に山岳地帯の異民族が不穏な動きを示した。(『孫権伝』)
などなど。これらの記述から、いかに多くの勢力が、新興勢力の孫策・孫権と対立していたかが浮き彫りになりますね。黄祖が拠っていた江夏や夏口、沙羨といった都市だけではなく、こうした周辺勢力とのバランスもあり、まだ勢力基盤が安定していなかった孫策は一気に黄祖を滅ぼす事ができなかったのでしょう。当時の人々は、まさか孫策・孫権が後に皇帝になるなんて思ってもいなかったでしょうから、「へんてこな若造に俺達の土地を荒らされてたまるか」という点で利害が一致して、親玉・黄祖のもとに集まるなどして頑張っていたのでしょう。
いずれにせよ、周瑜、呂蒙、程普、韓当、周泰、董襲、甘寧、凌統、徐盛、虞翻、胡綜らの伝に対黄祖戦に従軍した手柄の記述があり、また「太史慈は西に行って黄祖のもとに身を寄せ、それから北方へと行くのではないか、という憶測が飛んだ」(『太史慈伝』注引『江表伝』)など、黄祖との戦いが孫呉政権にとっていかに国運をかけた重大事であったかが窺われます。
最期につけ加えれば、黄祖を討った建安十三年というのは、赤壁の戦いの年です。勢力基盤が安定して意気軒昂であった事が、呉を曹操との開戦に踏み切らせた一因であったとも言えるかも知れませんね。
黄祖の性格については、次の二つのエピソードでその輪郭をつかむ事ができそうです。まずは甘寧。甘寧は黄祖に仕えて、その命を救うという手柄を立てたにも関わらず、重用されませんでした。(『甘寧伝』)そして禰衡は黄祖の息子の友人だったのですが、殺してしまっています。(『荀ケ伝』注引『典略』)あまり寛容ではなく、人材登用の手腕にもすぐれていなかったであろう事が窺えますね。地方に割拠した群雄らしく、ちょっと頑固な親父だったのではないでしょうか?(笑)
当掲示板、のじょんさん、がんもさん、funkさんとの対話より。
のじょんさんの「泣いてのじょんを斬る」の考察「黄祖と劉表」も、ぜひあわせてご覧くださいませ☆(2002.3)