随想三国志
曹休・曹真![]()
〜どっちが名将?〜
曹休と曹真は、正史では『魏書』巻九に並んで伝を立てられている。この巻九には、夏侯惇、夏侯淵、曹仁、曹洪などの列伝が収められている事からも、曹休と曹真に対する陳寿の評価が、決して低いものではなかった事が予想できる。『演義』では、曹休と言えば、呉の策略にはめられて大敗し、背中におできができて死んでしまった将軍、曹真は、諸葛亮にも司馬懿にも何としてもかなわず、あがきにあがいたうえ陣没してしまった小人物、という描かれ方だが、実際には二人とも、魏の建国に功績のあった重鎮であったのだ。
曹休、曹真とも、曹操の血縁であり、戦乱の中で親を失い、幼い頃から曹操に目を掛けられた、という生い立ちである。曹操が息子の曹丕(後の文帝)とともに生活させたという事からも、二人に目を掛けていた事が窺われる。その後、二人がどのような履歴を持ったのか、ざっと正史をたどってみよう。
まずは曹休について。
最初に訪れた大きな勲功のチャンスは、劉備との漢中攻防戦だ。曹洪が大将となり、曹休は騎都尉としてその補佐にあたる任を帯びていたが、出陣に際して曹操から、「実際にはお前が指揮官なのだぞ」と言い聞かせられたのだ。次代を担う若手将軍の育成のために、本人にも自覚を持たせたのだろう。曹洪もその意図を汲んで、曹休に諸事を任せたという。劉備配下の張飛・呉蘭の軍と対峙し、どちらと先に戦うべきか衆論がまとまらなかった時、曹休は「呉蘭を打ち破れば、張飛軍も潰走するでしょう」と進言している。事実その通りに事が進んだところを見ると、なかなか確かな戦術眼を持っていたらしい。曹操が漢中を平定して長安に戻ると、曹休は近衛軍を司る役職である中領軍に任ぜられた。やがて、幼い頃、起居を共にした曹丕が即位すると、領軍将軍となり、夏侯惇の死後、鎮南将軍、仮節(朝廷から与えられる割り符で、大きな裁量権を与えられた事を意味する)・諸督諸軍事となった。
順調な出世街道を走る曹休に、さらに追い風は吹き続ける。歴陽で呉軍を打ち破るなどの功績をあげ、征東将軍に昇進。文帝曹丕の孫権討伐の軍にも参加するが、その際には、征東大将軍になり、帝から黄金の鉞(まさかり)を賜り、張遼軍及び諸州郡の20余軍の指揮権を与えられている。この信任の篤さは、なかなかのものだと言っていい。
ところで、この戦いに関して、正史にはいささかはっきりしないところがある。『魏書・曹真伝』には、「洞浦に於いて呉軍の大将・呂範の軍を打ち破った」とあるのだが、『呉書・呂範伝』には、「曹休、張遼、臧覇らが来寇し、呂範は徐盛、全j、孫韶らを率いて、水軍を以て洞口で曹休らの軍勢を防いだ」とある。列伝は、それぞれの功績をピックアップして書く形になるので、往々にして、矛盾ともとれるこうした記述にぶつかる。この戦いの後、曹休は揚州の牧に任ぜられ、呂範は呂範で昇進しているところを見ると、双方痛み分けの戦いを、それぞれが「うちが優勢だった」と評価しようとしているのだろう。実際には、一応魏軍を退けた呉軍の勝利と言えるのだろうが、『演義』も曹休は呉軍に敗れた事にしており、曹休にはちょっと気の毒だ。
曹叡が即位した後、皖(かん)で呉軍を破るなどの功績をあげ、ついに大司馬に昇進する。押しも押されぬ魏軍の大重鎮となった曹休だが、最後の最後にとんだ落とし穴が待ち受けていた。太和2(228)年、明帝曹叡は、二路から軍を南下させる呉討伐を発動した。司馬懿とともに一方の司令官に任ぜられた曹休は、呉の周魴(しゅうほう)の偽りの降伏を信じて敵中深く入ってしまい大敗を喫し、軍勢も四散してしまったのだ。
この戦いは呉にとっては相当大きな戦果であったらしく、『呉書』の各所に記述が見える。まずは曹休を撃破した立て役者、『呉書・周魴伝』には、周魴が曹休に送った七つの長大な手紙の全文が載せられているほか、「曹休軍は瓦解して、斬られたり捕虜になったりした者は万を以て数えるほどだった」、とその功績を大いに称揚している。他にも、『呉主伝(孫権)』『朱桓伝』『陸遜伝』などがこの戦いに触れている。とりわけ、『陸遜伝』の「曹休は敵の計略だと気付いたが、騙された事を恥じ、軍勢が多いのを恃(たの)みにして戦いに踏み切った」という記述は、曹休の気位の高さを妙にありありと描出していて、興味深い。
曹休はこの敗戦を深く恥じ、謝罪の上奏文を献じたところ、明帝曹叡は使者を遣わして慰め、待遇はますますよくなる程だったという。しかし、敵の計略にはめられたのを恥じて戦機を見失った程、プライドの高いエリート将軍・曹休には、この敗戦はあまりに大きな恥辱だったのだろう。この事を気に病むあまり、背中にできものができ、それがもとで亡くなったという。(2001.4.15)
というところで、曹真については、また後日UPいたします☆ φ(.. )カキカキ