2002.5.9 更新
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随想三国志

諸葛亮と李厳



李厳と言えば、北伐で頑張っている諸葛亮の足をひっぱった困り者、というイメージが強いのではないかと思います。正史『三国志・蜀書・李厳伝』にも、食料運搬に支障をきたし、あまつさえその場逃れの偽りの言上をした旨が記されているので、その点に関しては弁明の余地はありません。しかし、諸葛亮と李厳の関係は、二人の間だけにとどまるものではなく、実際にはもっと複雑なものがありました。

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そもそも李厳は劉表・劉璋に仕えて重く用いられた人物です。劉備が蜀に侵入すると、李厳は軍勢を率いて劉備に降り、その後反乱の鎮圧などで功績を挙げました。夷陵の戦いで敗れた劉備は、李厳を永安に呼び、尚書令(しょうしょれい)に任命します(『三国志・蜀書・李厳伝』)。尚書令と言えば、国政全般をとりしきる要職です。ちなみに「魚復」という地名が「永安」に改めたのは、夷陵の敗戦後、222年の6月から8月までの間の事なので(『三国志・蜀書・先主伝』)、李厳が呼び出されたのも夷陵の敗戦後ということになります。劉備が諸葛亮を成都から呼び寄せたのは章武三年(223)の春二月なので(『三国志・蜀書・先主伝』『諸葛亮伝』)、それに先立つ事数ヶ月、章武二年の時点で、李厳は先に劉備のもとに呼ばれたのです。

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年が明け、いよいよ容態が思わしくなくなった劉備は、今度は成都から諸葛亮を呼び寄せます。すでに丞相の位にあった諸葛亮に「君の才は曹丕に十倍する。劉禅が君主としての器でなかったなら、君が取って代われ」といったというエピソードはあまりにも有名ですね。もっとも孫策も死に際、張昭に「もし弟・孫権が適任でなければ、君が取って代われ」と言い残したといいますから(『三国志・呉書・張昭伝』注引『呉略』)、家臣の忠誠心を奮い立たせるために、よく使われたフレーズなのかも知れません。

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劉備の死に際して、李厳は諸葛亮とともに劉禅を輔佐するよう言葉を賜りました。劉備は諸葛亮と李厳という両頭体制で劉禅政権の安定を図ろうとしたのです。この人事には、劉備ならではの配慮がありました。というのも、劉備が蜀を治めるようになってからまだ日が浅く、劉備とともに乗り込んで来た荊州派(と仮に呼びます)と、もとは劉璋配下であった益州派とのバランスをとる事に苦慮していたのです。

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たとえば、蜀に入って五年ほとが過ぎ、劉備が漢中王に即位した時の事です。群臣たちの献帝への上奏文に附せられた署名の序列は「馬超、許靖、ホウ广龍羲、射援、諸葛亮、関羽、張飛、黄忠、頼恭、法正、李厳・・・」となっていました(『三国志・蜀書・先主伝』)。馬超は父・馬騰の代から劉焉・劉璋と関わりをもち、蜀にその名を知られた大物です。許靖は劉璋に重んじられた名士、ホウ广龍羲は劉璋とは親戚関係にあり、射援もまた劉璋の配下でした。名ばかりとはいえ、この時点での上位の序列はほとんど益州派に占められていました。荊州派はトップの諸葛亮ですら第五位に過ぎなかったのです。益州派の扱いにこれほど気を遣わねばならぬほど、劉備政権はまだ脆弱(ぜいじゃく)であったという事です。

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荊州派と益州派、どちらの支持を失っても、成立してから日の浅い劉備政権は瓦解(がかい)の危機にさらされる事になります。そうした微妙なバランスの中で、諸葛亮と李厳に劉禅を託した事を考えれば、その意味も自ずと見えて来ますね。山口和久氏は、劉備が諸葛亮に「君が取って代われ」とまでの信頼を示したのは、益州派の李厳への牽制の意味もあったであろうと指摘しており、頷けるものがあります(『「三国志」の迷宮 〜儒教への反抗 有徳の仮面〜』文春新書)

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さて、諸葛亮は北伐を敢行するに際して、李厳を江州(重慶)に留め、後方の軍務や兵站(へいたん)をその手に委ねました。北伐が敢行される間、諸葛亮の取り計らいで、李厳とその息子の李豊は重職に就いています。こうした『李厳伝』の記述だけを見ると、この時期、諸葛亮が李厳を評価していたかのように見えますが、実際には複雑な事情があったようです。というのも、四川や雲南の歴史を綴った『華陽国志』によれば、諸葛亮が丞相府を開いたのにならって、李厳も幕府を開きたいと申し出たが、諸葛亮に却下された、といういきさつがあるらしいのです。諸葛亮にすれば、一国に二つの中枢を置き、いたずらに派閥を作る事を恐れて断ったのでしょう。幕府を開くのは許さないが、そのかわりという形で、李厳父子に様々な役職を与えて、そのメンツを保つように配慮していた、というのが実態のようです。

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建興九年(231)の北伐の際、李厳は前線への食料の運搬に支障を来してしまいます。その年は記録的な大雨が降ったので、蜀の桟道(さんどう)なども交通が困難だった事でしょう。渡辺精一氏は、前線に出ながら、食糧不足をきたすまで数ヶ月間何の動きも見せなかった諸葛亮にも責任の一端があったと言える、と述べています(『諸葛孔明〜影の旋律〜』東京書籍)。しかし問題はその後で、報告を受けた諸葛亮が軍勢を引き上げると、李厳はことさら驚いたふりをして「兵糧は十分足りているのに、どうして撤退してきたのだろう」と言いって責任を逃れようとし、劉禅には「軍は撤退を装って、敵をおびき出して戦うつもりです」と偽りの上奏をしました。しかし諸葛亮は、李厳とやりとりしていた手紙を整理して、李厳の矛盾を追及し、ついに位を剥奪して庶民に落としました。諸葛亮が劉禅に奉った弾劾文は、静かながらも怒りに満ちており、「李厳は心根が卑しく、不相応な身分を求めました。彼の子供を抜擢するなど、彼への厚遇ぶりを人々はいぶかしみましたが、大業がいまだならず、不安定な状況下では、李厳を罰するよりも褒めてやって使った方がよいと考えたのです」と述べ、甘い顔をした自分の罪を認めています。相当辛辣な言葉の裏に、長いこと必要以上に李厳に気を遣っていた諸葛亮の怒りが仄(ほの)見えるようです。

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しかし、地位も声望もある李厳を庶民に落とすには、大がかりな政治的操作が必要でした。その為に、諸葛亮を含めて23人もの署名がなされました。宮川尚志氏が「そうしなければ収拾できなかったかも知れない」(『諸葛孔明』光風社選書)と述べるように、李厳の失脚が益州派の人々に与える不快感と危機感は相当なものであったようです。

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これより前、李厳は諸葛亮に手紙を送り、九錫(きゅうしゃく)を受けて王位に就かれてはいどうか、と勧めた事があったようです。それに対して諸葛亮は、「魏を滅ぼして、天子がもとの都に戻られ、諸君とともに昇進の栄誉にあずかるというのならば、九錫どころか十の恩寵さえも受けましょう!」と返書を与えています(『三国志・蜀書・李厳伝』注引『諸葛亮集』)。現在は大業がなっていないのに、一身の栄達を図る気など毛頭ない、という毅然とした態度、ともに王業をよく輔佐しようという呼びかけ、自分に対する媚びを含んだであろう李厳を傷つけないよう「十の特典でも受けよう」と受け流したユーモア、どれをとっても見事なもので、裴松之の附したこの注によって、李厳と諸葛亮の人間性には、一段と差がついてしまいます。

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李厳が失脚した後、諸葛亮はその子の李豊にまで累を及ぼさず、真面目に精励するように諭しました。必要以上に事を荒立てたくなかったという側面もあるのでしょうが、陳寿の意図に沿って読むならば、それは打算ではなく、諸葛亮の公正な人間性によるものであった、という事になると思います。李厳は更迭されてから後、諸葛亮ならいつか自分を再び用いてくれる事があるだろう、と願っていました。しかしその諸葛亮が没してしまうと、「諸葛亮の後継者たちが自分を再登用してくれる事はないだろう」と嘆いて、病にかかり、やがて没してしまいました。諸葛亮の後継者たる蒋エン(王宛)(しょうえん)や費イ(「しめすへん」に「韋」)(ひい)にとって、李厳は強力な政敵にもあたるわけで、諸葛亮の力量と公正さがなければ、李厳の政界復帰はあり得なかったという事です。李厳と同じく諸葛亮に更迭された人物に廖立(りょうりつ)がいますが、彼も諸葛亮が没したと聞くと「わしはこの地で異民族のようになり果ててしまうだろう」と涙を流したといいます(『三国志・蜀書・廖立伝』)

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李厳更迭のケースは、職務怠慢は事実であったにしても、同時に政権抗争における益州派の敗北ととららえる事もできるところです。しかし陳寿の意図したところにのみ沿って読むならば、李厳はあくまで個人の資質に於いて諸葛亮に敗れた、と読むべきだとも思います。些か意地の悪い言い方をすれば、『李厳伝』そのものが諸葛亮讃美の一翼を担わされているとも言えると思います。

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『李厳伝』は『三国志巻四十・蜀書十』に収められています。その『巻四十・蜀書十』には、あわせて六人の列伝が収められています。すなわち、劉封、彭ヨウ(「漾」の「さんずい」の無い字)、廖立、李厳、魏延、楊儀で、いずれも何らかの罪で処罰された人物です。しかし彼らの伝記を丁寧に読むと、明確な叛逆や過失を犯したのか、いずれも微妙なところがあります。劉封はお家騒動の禍根を断つために罰せられました。彭ヨウは、劉璋のもとで不遇であったとはいえ益州派で、のちに劉備に疎まれて左遷されたうえ、馬超の誘導尋問のような問いかけにかかって、処刑されるハメになりました。魏延と楊儀の抗争も、諸葛亮亡き後のイニシアチブをかけての争いだったわけで、魏延が明確な叛意を持っていたのかどうか、陳寿自身も書き渋っているふしがあります(『オレは出世頭・魏延』参照)

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『李厳伝』を含む『三国志巻四十・蜀書十』は、一見すると犯罪者の名を連ねた巻なのですが、見方によっては、政治力学の中で必然的に悪者にされてしまった人々の列伝を集めた巻でもあります。陳寿がどのように意図していたか、断言する事は難しいです。しかし、もし政治力学の上で犠牲になった人々の列伝という意識を持って『巻四十・蜀書十』を編み、『李厳伝』も収めたというのであれば、そこに陳寿の李厳に対する、密かではあるが最大の譲歩を読みとる事ができるかも知れません。(2002.2.2)




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