2002.9.20 更新
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随想三国志

官渡の戦いの兵力について

三国志雑学Q&AA Q.016」で取り上げましたが、
陳寿『三国志』の記述をたどりつつ、
もう少しくわしい事情を述べてみたいと思います。



西暦200年、袁紹と曹操との覇権をかけた官渡の戦いが行われました。実質的には、後漢末の戦乱における天下分け目の戦いであったと言えます。しかし、歴史の転機となる大きな戦いであったにも関わらず、他の多くの戦いと同様、動員された兵力の実数は曖昧模糊(あいまいもこ)としています。戦場の推移もなかなか複雑で、曹操軍が官渡に籠もっているのに対して、まず袁紹軍が黎陽(れいよう)・白馬を攻撃し、すると曹操は延津から陽動作戦をとって白馬の戦いで顔良を討ち取ります。曹操軍は、続いて文醜も討ち取りますが、兵力・兵糧ともにジリ貧に陥り苦戦を強いられます。しかし、やがて烏巣(うそう)にある袁紹軍の兵糧焼き討ちに成功し、起死回生の大勝をおさめました。これが官渡の戦いの顛末(てんまつ)です。では、正史である陳寿『三国志』に見える、両軍の兵力に関する記述をざっとたどってみたいと思います。

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まず、袁・曹両陣営について概観してみましょう。
袁紹は当時、冀州・青州・幽州・并州の四州を支配しており、一方の曹操も、司隷・豫州・エン州・徐州の四州に支配力を及ぼしていました。それぞれ州の全域を完全に掌握していたわけではないのですが、参考までに『後漢書・郡国志』の統計によって各郡の人口を足してみると、各州の人口は以下のようになります。

袁紹       人口                  曹操       人口
冀州 5931919 司隷 3026161
青州 4109833 豫州 6179539
幽州 2044472 エン州 4052111
并州 696765 徐州 2791683


合計 12782989 合計 16049494

あくまでもおおざっぱな比較ですが、こうして見ると、袁紹の支配下の人口は約1278万、、曹操の支配下の人口は約1604万となり、曹操の方が国力が豊かなように思われます。しかし実際には、曹操の支配する中原の地域は、黄巾の乱以後の度重(たびかさ)なる戦乱で極度に荒廃しており、人口は激減していました。董卓によって廃墟にされた洛陽や、虐殺の痛手を蒙(こうむ)った徐州なども、曹操の支配下に含まれています。一方の袁紹領はといえば、并州などは大きな戦禍にさらされておらず、曹操の領土に比べると荒廃の度合いは軽微であり、総合的な国力で見ると、曹操陣営を上回っていたと考えてよいようです。(注1)後に袁紹を倒して冀州を手に入れた曹操は、そこの戸籍を見て「これなら三十万の大軍を手に入れる事ができる」と言ったといい(「崔エン伝」)、この事からも、袁紹領が大軍を養えるほど豊かであった事がうかがえます。

ちなみに三国時代の人口については、相次ぐ戦乱のせいで戸籍の整理は万全でなかったはずなので、戸籍上の人口が減ったほどには、実際の人口が激減していたわけではない、という問題もあります。しかし、戸籍に記載されていない人口は、為政者(いせいしゃ)からすれば兵力・生産力として計算する事ができない人口ですので、結局のところ実際に激減したのと同じダメージを受ける事になったはずです。

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また、領土の荒廃に加えて、曹操陣営は他にも地理的なデメリットを抱えていました。というのも、袁紹は北方の雄・公孫サンを倒し、異民族と良好な関係を結ぶ事によって、後顧の憂い無く軍を南下させる事ができましたが、曹操は袁紹以外にも四方に敵を抱えた状態でした。南の汝南は袁紹の故郷であり、曹操に対するレジスタンスが展開されていましたし、それに加えて劉備軍のゲリラ的な攻撃もあり、また荊州には劉表が兵を温存しており、といった具合で、曹操は拠点である許昌近辺ですら支配が完全ではないという有様でした。後に曹丕が詔勅(しょうちょく)の中で、「潁川(えいせん)は先帝(曹操)が兵を起こした地である。官渡の戦役では、周囲の地域は瓦解し、遠きも近きも形勢を観望していた中で、この郡だけは節義を守り、若くて丈夫な者は戈を担って戦い、老いて弱々しい者は兵糧を背負ってくれた。」(「文帝紀」注引『魏書』)と述べており、潁川以外の地が、日和見(ひよりみ)的でいかにあてにならなかったかがうかがえます。

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こうした勢力図を俯瞰(ふかん)した上で、次に陳寿『三国志』に見える、官渡の戦いにおける両軍の兵数を確かめてみましょう。まず、袁紹軍に関しては、

衆數十萬、以審配、逢紀統軍事、田豊、荀シン、許攸為謀主、顔良、文醜為将率、簡精卒十萬、騎万匹、将攻許。(「袁紹伝」)
衆數十万、審配、逢紀を以て軍事を統(す)べしめ、田豊、荀シン、許攸を謀主と為(な)し、顔良、文醜を将率と為し、精卒十萬、騎万匹を簡(えら)び、将(まさ)に許を攻めんとす。)

と見えます。数十万の軍勢の中から精鋭十万と騎兵一万を選んで許昌攻略に出陣した、との事です。裴松之が注に引く『世語』には「歩兵八万、騎兵八千」という記述も見えますが、「程c伝」にも「袁紹軍十万」と見え、また些か時期が遡(さかのぼ)りますが、袁術の「曹操はくたびれた数千の兵で(冀州の)十万の軍と戦おうとしているが、これは己の力を弁(わきま)えていないというものだ」というセリフもあり(「張範伝」)、やはり「袁紹軍十万」がほぼ定説となっていたようです。

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これに対して、曹操軍の兵力はどう記されているのでしょうか。袁紹が東西数十里にわたって陣営を連ねて前身して来た時、曹操もまた陣営を分けて対抗して合戦に及んだが様相は不利であり、次のように記されています。

時公兵不滿萬、傷者十二三。(「武帝紀」)
(時に公の兵萬に滿たず、傷つく者十に二三。)


その時の曹操の兵は一万に満たず、十分の二〜三の者が負傷した、との事です。また「荀ケ伝」にも、「敵の十分の一の兵で」と見え(『後漢書・荀ケ伝』も同じ)、袁紹軍を十余万とすれば、やはり曹操軍は一万程度であった計算になります。「劉曄伝」に見える「殿は五千の歩兵を率いて董卓を誅しようとし、北は袁紹を破り、南は劉表を征伐し」という言葉から、曹操軍は官渡の時にも一万よりも少なかったのではないか、という議論を見かけた事もありますが、「五千の歩兵」はあくまで挙兵時の兵力だと見る事ができるでしょう。

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官渡の戦いにおける曹操軍は一万程度であった、と「魏書」では辻褄(つじつま)があっていますが、実際には曹操はもう少し大きい兵力を動員する事ができたものと思われます。また、どこからどこまでを前線として兵力に数えるのか、という厄介な問題もあります。例えば、于禁は楽進とともに五千の兵を率いて、延津から黄河沿いに西南に進み、三十余の袁紹の陣営を焼き払った、と見えます(「于禁伝」)。 また、程cは七百の兵でケン城(エン州済陰郡)に立て籠もっていましたし(「程c伝」)、一族と部下を引き連れて曹操軍に投じた李典(「李典伝」)、孤立した状態の中で、親族の反対を押し切って袁紹からの誘いを断り曹操への忠誠を貫いた李通(「李通伝」)、青州の袁紹領に侵入して、東方の憂いを消し去る役割を果たした臧覇(ぞうは)(「臧覇伝」)等の武将も、おのおのが手勢を率いていたはずです。また兵糧や武具の輸送に関しても、「千台の運搬用の車を一部隊として、十列で進み(?)、さらに複数の陣でこれを囲んで守った」という記述が見えるので、輜重(しちょう)にも少なくとも数千人単位の人員が動員されていたであろう事がうかがわれます(「任峻伝」)

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といった具合に、最前線ではないまでも、官渡の戦いに関与した軍勢は、細かいところまで数えれば相当な数にのぼったはずです。とは言うものの、全体として見れば、曹操軍が兵力的に劣っていた事は疑いありません。多くの武将が袁紹に内応しようとしていた文書が戦後多数見つかりましたが、曹操がそれを咎(とが)めずに焼き払った話は有名ですね(「武帝紀」)。他にも、「太祖(曹操)は官渡を保持し、袁紹軍がこれを包囲した」(「荀ケ伝」)という記述をはじめとして、徐他のように曹操を暗殺しようとする者も出たほどで(「許チョ伝」)、官渡の戦いがいかに苦戦であったかが随所に記されています。そうした苦戦の中で、裴松之も「武帝紀」の注でその功績を認めているように、許攸の裏切りが決定打となった事は当時から広く知られていたようです。「呉書・胡綜伝」に見られる文書には、ほとんど同時代であるにも関わらず、許攸の裏切りがはやくも故事として引用されていたほどです。

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さて、ここまで陳寿の手になる記録を概観してきましたが、次にそれに対する批判や考察をざっと見てみましょう。まずは、『三国志』に注を附した裴松之自らが疑問を呈しています。裴松之の批判を要約すると、

黄巾賊の降兵を三十万余りも受け入れているのに、兵力が一万などというはずはない。袁紹軍十余万が東西数十里に陣営を連ねた際、曹操軍も陣営を分けて長期間対抗したというのだから、それなりの兵力があったはずだ。徐晃に輸送車を襲わせたり、曹操自らも軍を動かしながら、敵の抵抗に遭わなかったというのは、袁紹軍が完全に曹操軍を制圧できていたわけではないからだ。曹操は袁紹軍の捕虜七、八万を穴埋めにしたというが(「袁紹伝」注引『漢紀』)、八万人が逃亡したらたった八千人で捕縛しつくせるものではない。従って、曹操軍ももっといたはずだ。「鍾ヨウ伝」には、官渡の戦いの際、鍾ヨウが二千の軍馬を補給のために送ったとあるが、「武帝紀」では六百余騎で戦っている。残りの馬は、どこに消えたのか?(「武帝紀」裴注)

こうした点から、裴松之は、曹操軍の兵数が少なくかかれているのは事実ではなく、曹操の用兵の見事さを描こうとしたものだ、と論断しています。

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では、裴松之以降の歴史家はどのように考えていたのでしょうか?
廬弼(ろひつ)『三国志集解(さんごくししっかい)が引用している言葉を見てみましょう。清・何シャク(糸へんに卓)曰く「必ずや一〜二万の親兵(近衛兵)がいたはずで、一万にも満たないというのは事実ではない」。また林国賛曰く「本紀及び曹仁・曹洪・鮑クン(員に力)・程c・任峻・楽進・衛臻(えいしん)・満寵等の列伝、また孫堅・孫静伝の注に引く『会稽典録』によると、当時兵を出して曹操を助けた者は、およそ四万余人であった。張遼・于禁・李典・李通・許チョ等、衆をあげて(曹操に)降って来た者で正史がその兵力を記しておらぬ者は、数に含んでいない。(曹操軍が一万しかいなかったわけがないという)裴松之の説はまことにもっともである」。廬弼自身も、「数十万の軍勢がいたはずなのに、なぜ官渡に赴かせなかったのか、疑わざるをえない」と、皮肉だか疑問だか分からないような書き方をしています。

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さらに現代の歴史家の意見も見てみましょう。
まず、高鋭氏主編『中国軍事史略』(軍事科学出版社、1992念)は、曹操軍が参戦させられた部隊は、二〜三万に過ぎないと述べています。『中国古代戦争戦例選編』(中華書局、1983年)は、林国賛の「曹操軍は四万以上説」をとっているようです。(注2)張大可氏は『三国史研究』(甘粛人民出版社、1988年)の中で、曹操が四囲に敵をもっていた事から、官渡に集中できた兵力は袁紹より少なかった事は認めつつも、「陣営を分けて抵抗した」という記述を重視し、少なくとも袁紹軍の三分の二程度の七〜八万の軍勢を擁していなければ、到底陣を維持できなかっただろう、と推測しています。また、諸列伝から官渡の戦いに参加した曹操麾下(きか)の武将を列記して、それらの諸将が率いた軍勢だけでも三〜四万をくだらず、さらに曹操自らが率いた中軍や近衛兵が数万はいたはずである、とも述べています(『三国史研究』61〜62頁)。この張大可氏の意見が曹操軍をかなり大きくとらえているのに比べると、馬植傑氏の『三国史』(人民出版社、1993年)はもう少し穏便というか、裴松之の意見に賛同し、曹操の四方が敵である事などを指摘するにとどまり、曹操軍の実数がどれほどであったかには論及していません。(注3)

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日本の論考で、官渡の戦いの兵数について触れているものはどのような具合かというと、袁紹の軍勢に関しては、ほとんどノーマークの状態で「十万前後」とされています。曹操軍に関しては、狩野直禎『中国史叢書 三国時代の戦乱』(新人物往来社、1991年)竹田晃『曹操』(講談社学術文庫、1996年)は、「兵力は万に満たず、負傷者も多い」という一節を紹介していますが(注4)、 堀敏一『曹操 三国志の真の主人公』」(刀水書房、2001年)のように曹操の兵数には触れていないものもあります。石井仁『曹操 魏の武帝』(新人物往来社、2000年)は、ちょっとユニークな見解を示しています。裴松之以来の「一万は虚偽説」を紹介しつつも、同時に陳寿『三国志』の中ではその記述は矛盾をきたしていないとして、「この数字は魏王朝の公式見解なのだろう」と述べています。また、曹操、郭嘉、荀ケのみならず、袁紹の人柄をよく知らないはずの楊阜までが同じ袁紹観を語っている点に注目して、「許都には袁紹に関するある種の報道管制がひかれていたのだろう」という指摘がなされている点は面白いですね。石井氏も指摘するように、記録はすべて曹操側の手になるものであり、敗者である袁紹側のデータがない点は、常に意識しておかねばならないところだと思います。

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では最後に、ガイドブックや三国志特集を組んだ雑誌等ではどのように紹介されているかを見てみましょう。
学研・歴史群像シリーズ17『三国志 上巻 曹操・劉備・孫権、天下への大計』
(の中の工藤象興氏、1990年)世界文化社『三国志 策謀と激闘の世界』(の中の河野収氏、1992年)は、曹操軍の兵力を明記していません。学研・歴史群像シリーズ28『群雄 三国志 諸葛孔明と勇将、激闘の軌跡』(の中の市川宏氏、1992年)新人物往来社『歴史読本「三国志」英雄たちの戦い』昭和六十三年九月号、の中の狩野直禎氏)は、「兵は万に満たず、負傷者が二〜三割」の箇所を紹介しています。秋田書店『歴史と旅 治乱興亡!! 三国志』(平成2年 4月号)では、中村整史朗氏が「曹操軍二万」と言い切っていますが、これは作家としての設定のようです。

篠田耕一『三国志軍事ガイド』(新紀元社、1993年)は、袁紹と曹操の領地の支配力を加味して、それぞれの動員可能兵力を約三十万人と約十八万人と推測しています。また、官渡の陣営には、曹操は三〜五万の軍勢を結集させていたのではないか、と推測していますが、その点に関しては論拠が示されていません。

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以上、官渡の戦いにおける曹操軍の兵力は、正史では「一万に満たず」とされ、後代の考証では「一〜二万説」「四万説」「三〜五万説」「七〜八万説」等がありました。余談ですが、小説『三国志演義』では、袁紹軍は七十余万という事になっています(笑)

こういった具合で、古来、官渡の戦いの実際の兵力に関しては、諸説紛々、定説を求める事はできないようです。兵力の実数がどれほどであったかは、歴史の流れからいえば全く大きな問題ではありませんが、つい深追いしてしまいました(笑) 色々な考え方があるところですが、「一万」という数字は、曹操自らが指揮していた、いわゆる中軍や近衛兵の数字としてみれば、それほど不自然ではないようにも思われます。

ちなみに、中国の中学校の歴史教科書には、袁紹軍十万人、曹操軍三〜四万人、と記されているようです(注5)。多くの学説を検討した結果到達したのであろうこの数字、やはり妥当なラインであろうと思われますので、とりあえずは公式見解としておきたいと思います(笑)

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※1 張大可氏は、官渡の戦いの時、袁紹陣営の人口は400万、曹操陣営の人口は300万ほどではないかと推測しています。(『三国史研究』 (甘粛人民出版社、1988年)所収、「官渡之戦及袁紹集団的覆滅」)
※2 この書のみ原典にあたっておらず、張大可氏『三国史研究』(61頁)よりの孫引きです。
※3 中林史朗・渡辺義浩氏『三国志研究要覧』(新人物往来社、1996年)に、以下の論文が紹介されていますが、今回は読む手間をかけられませんでした。これらの中にも、あるいは兵力について触れているものがあるかと思いますので、いずれ機会があれば、また・・・梁養吾氏「論赤壁之戦」(『史学月刊』1957年)、肖篤「我対“論官渡之戦”一文的意見」(『史学月刊』1958年)、何茲全「官渡之戦」(『北京師範大学学報(社会学科)』、1962年)、鄂世ヨウ(金へんに庸)「官渡之戦曹勝袁敗的原因為何」(『歴史教学』、1964年)、楊志剛「官渡之戦」(『朝霞』、1974年)、李関良・李海生「袁曹官渡之戦」(『学習与批判』、1974年)、田余慶「曹袁闘争和世家大族」(『歴史研究』、1974年)、振中・廬進「官渡大戦」(『上海人民出版社』、1976年)、方詩銘「曹操安定エン州与曹袁関係」(『魏晋南北朝史研究』、1986年)。
※4 狩野直禎氏『中国史叢書 三国時代の戦乱』の巻末には、『歴代戦争年表』(解放軍出版社刊)他を参照して編集部が作成した年表が附されており、そこには「曹操は四万人余りの歩兵と騎兵を集結し」と見えます。
※5 明石書店・世界の教科書シリーズ5『入門 中国の歴史』参照。該書は『九年義務教育三年制初級中学教科書 中国歴史第1冊』(中国人民教育出版社、1992年版)に基づく。

(2002.9.20)





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