随想三国志
夏侯淵の最期![]()
〜地名に見る局地戦の様相〜
4年に及ぶ戦いの後、214年、劉備は劉璋から益州を奪い取りました。しかし、ここで劉備の新生・蜀が盤石(ばんじゃく)になったわけではありませんでした。というのも、その直後から五年間、漢中を中心にして魏との激しい戦いが繰り広げられたからです。
魏軍はすでに巴西をおさえて巴郡(現在の重慶市)まで南下しており、これでは成都と荊州の交通は実質的には遮断されたも同然です。その間、張コウ(合β)が漢中の住民を移住させたりするなどの動きもあり、劉備軍にとっては、あしかけ十年にわたって戦いに明け暮れる日々であった事になります。
張飛などの蜀軍が優勢な時もあれば、
備以精卒萬余、分為十部、夜急攻コウ。コウ率親兵搏戰、備不能克。
(劉備は一万余の精鋭を率い、それを十の部隊に分けて張コウに夜襲をしかけたが、張コウは親衛隊を率いて戦い、劉備はそれを打ち破る事はできなかった。)
などという事もあり、一進一退、ある時は勝ち、ある時は負けるという戦線だった事が想像できます。
五年間にわたる漢中攻防戦のハイライトの一つが、夏侯淵が戦死した定軍山の戦いです。夏侯淵の戦死に関して、「夏侯淵伝」「張コウ伝」ともに、張コウが劉備の急襲を受け、夏侯淵がそれを救援しようとしたと見えるので、夏侯淵戦死の直前、張コウが劣勢に立たされる戦いがあったようです。夏侯淵戦死の際の戦線が、どれほどの規模で展開されていたかよく分からないのですが、「夏侯淵伝」には
淵使張コウ護東圍、自将軽兵護南圍。備挑コウ戦、コウ軍不利。淵分所将兵半助コウ、為備所襲、淵遂戰死。
(夏侯淵は張コウに東の囲いを守らせ、自らは軽装備の兵を率いて南の囲いを守っていた。劉備は張コウに戦いを挑み、張コウ軍が不利になると、夏侯淵は兵の半数を分けて張コウを救援させたが、そこを劉備軍に襲撃され、夏侯淵は戦死してしまった。)
とあります。戦場が地名ではなく「東圍(東の囲い)」「南圍(南の囲い)」と呼ばれているところから、夏侯淵と張コウの陣は比較的近くにあったと思われます。そうすると、劉備軍も大がかりな陽動作戦をとったのではなく、走馬谷で張コウの陣を焼き払った事による連鎖反応的な混乱に乗じて、夏侯淵を撃破したように思われます。
また「先主伝」には、次のように見えます。
先主命黄忠乗高鼓譟攻之。
(劉備は黄忠に命じて、高い土地によって鼓を鳴らして夏侯淵を攻めさせた。)
ここでも地名ではなく「高いところによって攻めさせた」と記されています。こうして見ると、夏侯淵が戦死をとげた最後の戦いに関する正史『三国志』の描写は、戦略的というよりは局地的・戦術的な戦いの描写であるような気がします。この点からも、いわゆる大規模な情報戦というよりは、混戦の中で戦機を見誤らずに劉備が下した判断が蜀軍を勝利に導いたように読めると思います。
もっとも、劉備が夏侯淵よりも張コウを警戒し、曹操も夏侯淵の思慮の足り無さを危惧していたという記述があり、結局は戦略的にも戦術的にも、夏侯淵は劉備に押されての敗北だったのでしょう。夏侯淵も異民族との戦いでは活躍しましたが、漢中での対劉備戦では精彩を欠いて戦死を遂げてしまった観がありますね。
蜀にしてみれば、漢中は自国が存続する為の生命線であり、魏軍がそこに駐屯しているという事は、まさしく危急存亡の秋(とき)だったと言えます。だからこそ、219年に曹操を漢中から撃退した時、蜀の国内には「これで国としてやっていけそうだ」という気分が高揚したはずです。そう考えると、劉備が名乗った「漢中王」という称号の中には、漢の高祖・劉邦の例にならっただけではなく、実感としても「曹操を漢中で撃退してやったぞ!」という相当大きな歓喜と安堵感が込められていた事でしょう。(2002.4.)