随想三国志
鳳雛先生のこと![]()
いまさら言うまでもなく、政治家としての諸葛亮の力量は、中国史上に冠たるものだ。賞罰は厳重であっても、公平であるが故に不平の声があがらないというのは、ある意味、法家の理想的な治世だと言えるだろう。諸葛亮に罰せられて庶民に落とされた李厳が、諸葛亮の訃報に触れるや、「あの人が生きていればまた用いられることもあっただろうが、死んでしまったからには、自分ももう日の目を見ることはないだろう」と嘆いたという。罰した人物にまで尊敬されるというのは、なかなかすごいことだ。
一方、諸葛亮と並び称された英才、鳳雛(ほうすう)先生ことホウ[广龍]統はどうかと言えば、風采があがらず、若い頃は人々の注目を集めることもなかったという。しかし、英才が必ずしも美貌と若さを伴侶として現れるとは限らない。三十路にさしかかったホウ統の円熟には、見るべきものがある。「誉めて人材を育てる」というのが、ホウ統の発想だ。部下を大げさに誉めてやるのを不審に思った人に答えて曰く、「十人を抜擢して、そのうち五人が失敗したとしても、なお半数のものを得て、世の中を教化し、ヤル気のあるものを励ますことになる。それもよいではないか」。乱世にあって、厳格な諸葛亮とは対照的な、懐の広い思想の持ち主だったことが窺われる。
『三国志』が注に引く張勃『呉録』には、ホウ統が自分の真価を査定する言葉がある。すなわち、「帝王のとるべき秘策を論じ、物事の要(かなめ)を見極める」ことに長けている、と。まさしく、その言のむべなるかな。後に劉備が蜀に軍を進めたとき、ホウ統は軍師として従軍して、その自己認識が間違っていないことを証明する。戦略的・戦術的な大きな岐路に立たされた劉備に、劉璋軍を急襲するか、様子を見つつ漸進するか、いったん退くかという上・中・下の三つの策を披瀝(ひれき)して見せたところに、短絡的に目的に邁進するのではなく、状況に照らして様々な方策を立てられる能力の神髄が現れている。
劉璋とは同族であることを気に病んで、蜀に侵攻できない劉備を説き伏せたのもホウ統だ。「天下の信義を失うことはできない」という劉備を、「いまは、その場に応じた方策をとらねばならない時代で、信義だけで治まる世の中ではありません」と一刀両断、当たり前と言えば当たり前のことを、ズバリ君主に言ってのけるのもホウ統ならではだ。
ドライな進言があるかと思えば、こんなシーンもある。劉璋軍を破り、「いやあ、今日の宴会は本当に楽しい!」と有頂天になる劉備をホウ統が諫めるのだ。「他人の国を討伐して楽しいとは、仁者のいくさではございませんな」聞いた劉備は酔いにまかせて怒り、ホウ統を退出させる。が、ホウ統が出ていくと、すぐに劉備は後悔して、戻ってくるよう頼んだ。宴席に戻るなり、謝りもせずに平然と飲み食いを続けるホウ統を見て、劉備は、保つべき君主の威厳と気まずさとの板挟み。たまりかねた劉備が口を開く。「さっきの話は、誰が間違っていたのかね」ホウ統曰く、「君主も臣下も、ともに間違っておりました」これを聞いた劉備は大笑し、またもとのように宴席を楽しんだという。
このエピソードには、いくつもの機微がある。一つ目は、もともと劉璋討伐を進言したのはホウ統であるのに、戦勝を喜ぶ劉備を諫めたことだ。これは、劉備が掲げている「仁義」の旗印が、酒の席でほころぶのを未然に防ぐためだ。勝ったとはいえ、劉備たちは蜀の人々にとっては進駐軍、下手に反感を買うような言動は慎まねばならない、というのを直言したのだ。まさしく帝王を補佐する軍師のあり方だ。二つ目は、直言したうえで劉備のメンツも保ったこと。仁義にもとる発言をしたのは、誰が何と言おうと君主・劉備の過ちだ。しかし、それを直言した無礼は、臣下であるホウ統の過ち。「どっちもどっちですな」といって、とりつく島を作ってやるホウ統の態度に、劉備と同席の面々がが救われた様子が彷彿とする。三つ目は、劉備との信頼関係だ。退席を命じられて退くが、ホウ統には劉備がすぐに後悔するのも分かっていたことだろう。さればこそ、叱責されたにも関わらず、堂々とまた姿をあらわしたのだ。こうした君主の性格を性格に見極めているあたりからも、ホウ統がくだす人物評価が名高かったのも頷ける。
小説としての『三国志演義』では、諸葛亮を巡る人々の評価は、のきなみ史実より低いものになってしまう。
周瑜しかり、曹真しかり、司馬懿しかり、そしてそれは味方であっても同じで、ホウ統もいささか道化師的な役回りだ。容貌の醜さをアピールされ、それほどの活躍も見せぬうちに諸葛亮に嫉妬して破滅する器の小さい軍師。しかし、正史のホウ統は、そんなに感情の重心が高い小人物ではなかったはずだ。人材の育成に熱心。情報を分析して、選択の幅のある方策を立てられる。仁義のなんたるかを常に意識しながらも、事を遂行するにあたってはドライに。ちょっと誉めすぎのきらいもあるけれど、陳寿も「ホウ統伝」末尾の論賛で、「ホウ統は魏で言えば荀ケにあたる」と、最大級とも言える評価を与えている。
流れ矢(中国古典の流れ矢は、それた矢ではなく、雨あられとふり注ぐ矢のこと)にあたり、36歳の若さで戦死したホウ統。劉備は彼の話をするたびに、哀惜して涙を流したという。言いにくい事柄でも、必要とあれば忌憚(きたん)なく言ってのける軍師、、そのありがたみを一番よく分かっていたのは、君主である劉備そのひとだったのだろう。(2000.12.20)
ホウ統祠を訪ねた紀行文もどうぞ。三国志紀行