随想三国志
糜竺![]()
〜ちょっとシュールな大金持ち〜
『蜀書・糜竺(びじく)伝』によると、糜竺は、一万人からの小作人を抱える、先祖代々の大金持ちだったという。「劉備でなければ、この州を治められない」(『蜀書・先主伝』)という陶謙の遺命を奉じて小沛から劉備を迎えたのが、ほかならぬこの糜竺だった。
下ひ(こざとへんに丕)を呂布に奪われ、劉備の妻子が捕虜にされた際、糜竺は下僕二千人と家財とを劉備に献上しただけではなく、なんと妹まで劉備の夫人として差し上げてしまったのだ。いかに漢の中山靖王の末裔を自称しているとはいえ、一介の蓆(むしろ)売りから身を起こした劉備に、これほどまでの献身を惜しまなかった糜竺。
もちろん、「この人物は、今が底値で買い時だ!」という商人特有の計算がなかったと言えばウソになるだろう。それにしても、滅亡の危機にある人物に家財と親族を提供してしまったのだから、たとえ計算尽くであったとしても、その計算を「忠義」と呼んでもよいかも知れない。
のちに、曹操が糜竺をエイ(贏の下部中央が「貝」ではなく「女」)郡太守に任命したときも、糜竺は官位を去り、流浪する劉備に付き随っている。劉備の荊州入りに際して、簡雍や孫乾とともに従事中郎に任じられた。益州入りの後には安漢将軍となり、席次は軍師将軍・諸葛亮よりも上位を占めていたのだ。
『蜀書・先主伝』には、劉備に皇帝の位に即くよう勧める上奏文が載せられているが、上奏する臣下の序列は「太傅(たいふ)・許靖、安漢将軍・糜竺、軍師将軍・諸葛亮」となっている。劉備が皇帝に即位すると諸葛亮は丞相となり、そこではじめて諸葛亮が名実ともにナンバー・ワンになるわけだ。
正史『蜀書』の末尾に附せられている『季漢輔臣賛』に曰く、「安漢将軍(糜竺)は人柄が穏やかで、劉備の姻戚として、或いは賓客として礼遇された。善良な家臣である」。統率が不得手であったため、実際に軍を率いる事はなかったのだが、人柄は穏やかで、劉備の恩寵が最も篤かったという。
そんな温厚な人物に相応しい、ちょっとした逸話がある。正史『三国志』が注に引く『捜神記』に見える話で、概略はこうだ。
あるとき洛陽まで出かけた帰り道、道ばたに一人の女性がいた。糜竺の車に乗せて欲しいと言うので、糜竺が乗せてあげると、別れ際に、「私は天からの使者です。これから東海の糜竺という人の家を焼きに行くところでございますが、車に乗せていただいたお礼に、お話しいたします」と言うではないか。糜竺が「なんとかならぬものでしょうか」と頼むと、女曰く、「焼かないわけにはまいりません。あなたの家とは知りませんでしたが、それなら大急ぎでお帰り下さい。私はゆっくりまいります。正午には必ず火が出ることになりましょう」そこで糜竺は急いで帰り、家財道具を運び出した。正午になると、果たして火事が起こったのだ。
この逸話は、小説『三国志演義』第十一回の冒頭部分にも使われていて、そこでは「天からの使者」ではなく「南方火徳聖君の使者」となっているが、内容は変わらない。様々な奇怪な事件を記した『捜神記』は、版本の問題が複雑で、成立年代も諸説ある書物だが、『三国志』や『後漢書』にも多くの記事が取り込まれていて、三国時代直後の民間の伝承を、比較的ナマで伝えている部分も多い書物だ。管輅や左慈の逸話の出所も『捜神記』である場合が多い。管輅や左慈が、こうした超常現象
の専門書に現れるのは当然なのだが、糜竺のようないかにも普通そうな人物にも、どうしてこんなエピソードが生じたのか、不思議なところではある。金持ち喧嘩せず、とはよく言われるところだが、神の加護があってもよいと庶民に思わせるほど温厚な大金持ち、というのは、ちょっとすごい事だ。(2001.1.30)
<追記>![]()
ちなみに梁・蕭綺 『拾遺記(しゅういき)』巻八には、『捜神記』とは少しバリエーションの異なる逸話が見える。概略は、
赤眉の乱(前漢末の乱)で害せられた女性の霊に、糜竺が青衣を着せてやって弔ってやった。女性の霊は、その恩に報いる為に火事の予告をする。火事の際には青衣の童子が現れた。
というもので、大筋は『捜神記』と類似しているが、「青衣」が強調されている点などが目を引く。『捜神記』系と『拾遺記』系の逸話は、混ざり合う事なく後世に伝えられたようで、後代の『太平御覧(たいへいぎょらん)』『事類賦』『天中記』『淵鑑類函』『佩文韻府(はいぶんいんぷ)』などの類書(百科事典)には、双方の系統の逸話が載せられている。(2002.5.19)