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一言書評
漫画・アニメ



気づけば歴史マンガの巨匠?

横山 光輝


『三国志』


潮出版の希望コミックスで全60巻! 中学2年時の小遣いは、ほとんどこのマンガに費やされてしまった。吉川英治、コーエーと並んで、日本における三国志普及に果たした役割は絶大だ。文学・歴史・娯楽の各ジャンルにおいて、三国志を単なるブームから、一種の常識にしてしまったと言っても過言ではないだろう。よくぞこれだけのマンガを描いてくれた! という感謝の念で一杯なのだが、いくつか難点をあげれば、

@セリフまでほとんど吉川英治を下敷きにしているのに、その旨表記しないでもよいのか?
A官渡の戦いを描かないのは、横着すぎる。あそこで曹操と劉備の人相もも変わりすぎで、誰が誰だか分からなくなってしまう(笑)
B鎧兜を脱ぐと、みんな同じ顔で、キャラの描き分けが全くない。

でもまあ、少女漫画を描いていた頃から、躍動感のまったくない絵を描く漫画家として有名だったのだから、あまり高望みをしてはいけないかも知れない。(2001.4.7)



『水滸伝』


8巻という短さとも関係があると思うが、『三国志』に比べると、物語としてはコンパクトによくまとまって描けている。登場人物の外貌の描き分けができてないのは相変わらずだが、『水滸伝』の原典の抑揚にも助けられて、登場人物一人一人の躍動感は、なかなかよく描けていると思う。この作品を描いたおかげで、後に三国志にも手を出したのではないかと思われ、その意味では、三国志への導火線としても評価してよいだろう。
(2001.4.7)



『項羽と劉邦 若き獅子たち』



三国志の連載終了後、同じくコミック・トムで連載されたものだ。三国志の流れを受けてファンは多かったようだが、これまた躍動感のなさにかけては、右に出るもののない一品だった。

『三国志』は吉川英治を完全に土台にしていたため、物語の進行も安定してたいし、人物たちも奥行きを持っていたが、その点では『項羽と劉邦』はまったくの落第点だと思う。展開も人物も薄っぺらで、だらだらと物語が進み、どこが盛り上がりなのだか全然つかみ所がない。

とくに目に付くのは、戦いの場面のト書きの多さ。『三国志』の最後の方、北伐のあたりですでに芽ばえていた傾向だが、戦いの場面はどれもこれも武将が同じポーズで挑みかかり、「この時、山かげに潜ませていた伏兵たちが、いっせいに躍りかかった」とかの解説だけ。文字で物語の進行を促すのは、マンガとして怠慢だ。「部隊が混乱した」と文章で説明するのではなく、何コマかを使って、その慌てぶりを読者に味わわせる努力をして欲しい。巨匠だからと言って、諸手
(もろて)をあげて賞賛してしまう読者にも問題があると思う。

同じく項羽と劉邦を扱ったマンガに、本宮ひろ志の『赤龍王』がある。『赤龍王』は大幅に史実から逸脱しているという難点を抱えてはいるが、キャラクター、ドラマ性、構成力、迫力など、どれをとっても『若き獅子たち』の及ぶところではない。
(2001.4.7)



『織田信長』『徳川家康』『伊達政宗』



言わずと知れた、山岡荘八・原作の歴史シリーズだ。『信長』は、僕の思い入れがありすぎたせいか、ちょっと人物として薄っぺらな感じがしてしまう。ラストの本能寺の変で、紅蓮(ぐれん)の炎に包まれた信長が拳(こぶし)を握りしめて、「あと三年、いやあと一年・・・いや、あと一ヶ月あれば天下を統一してやったわ、光秀よ、天下はこそこそ盗めるものではないぞ」と独白するシーンがあって、ちょっと未練がましい。光秀の反乱を知って、「是非に及ばず(或いは是非もない、か?)」と言った信長であればこそ、弓を引いて戦ったあとは、炎の中で、もう少し恬淡(てんたん)とこの世に別れをつげて欲しかったような気がする。

で、『家康』はというと信長の上滑りなのとは逆に、ただただ民の平和の為に、耐えて耐えて耐えて耐えて、息子が殺されたりしてもうダメだというところになっても、やっぱり耐えて耐えて耐えて(以下繰り返し) とにかく人道的であり続けるという山岡『家康』のコンセプトはみごとに描き尽くされていると思う。「征夷大将軍」ではなくて、「忍耐魔王大将軍」という称号を授けたいほどだ。ただ、あまりの徹底ぶりに、その忍耐は葛藤ですらなく、運命論的な結末であるようにすら思えてしまわぬでもない。「おいおい、我慢しすぎは体に毒だぜ・・・」という気も起こってしまう。どちらかというと、みなもと太郎『風雲児たち』の家康のように、「天下を取るためならば、どんな策謀でも巡らしてやるわい、ギヒヒ」と徹底的に脂ぎっている方にリアルな凄味
(すごみ)を感じないでもないけれど、まあ苦労人・真面目一筋の家康ももちろんありだろう。長大な原作の分量が、マンガ自体にも重みを加えて、「真面目人間・家康」をサポートしていると言えるだろう。

『信長』『家康』に比べると、『政宗』はなんだか面白い。政宗も天下を狙い、信長や家康以上に野心勃々
(ぼつぼつ)たる武将なのだが、途中からイスパニヤという世界への接点を持つ事で、戦国日本らしくない不思議な風通しのよさを感じさせる。それは国内の情勢が固まりつつある戦国末期、しかも中央からはなれた東北に居を構えた政宗にとっては、ある意味、必然的な視点だったのだろう。安定し、閉塞(へいそく)して行く新時代の中で抱く野心は、戦国時代の混乱のさなかで抱く野心よりも、読む者をハラハラとさせる。ちなみに「独眼竜」という呼称は、中国の正史『新五代史』に見える言葉で、李克用(856-908)を称したものだ。日本の政宗を「独眼竜」と称するのは、頼山陽(らいさんよう)の詩に「河北、渾(ことごと)く独眼竜に帰す(河北とは、白河より北(東北全域)を中国風に言ったもの)」と見えるのに由来するのだとか。政宗は独眼ではあったが、眼帯のその奥で、余人とは異なるふうに世の中を見据えていたのだろう。(2002.8)



『武田信玄』『武田勝頼』


新田次郎・原作のシリーズ。何というか、面白いには面白いのだが、どちらものっぺりとしたテンポで物語りが進んで行き、読み手としてどこで盛り上がればよいのかが、いまいちはっきりとしない。これは横山歴史マンガ全てに共通する問題点だ。それでも『信玄』は、父信虎・謙信・川中島というスポットがあるので、ある程度は焦点をあわせやすいのだが、『勝頼』はというと、冒頭から5巻かけて没落し続ける感じで、なんとも盛り下がる。しかし、その昔『勝頼』を読んだうちの母は、「こんなに胸に迫る話ははじめてだ!」といたく感動していた。人それぞれ、様々な滅びの美学があるのだなあ、というお話(笑)
(2002.8)



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