2006.1.6 更新
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一言書評
漫画・アニメ
単なる18禁マンガ家じゃなかった 内田 春菊 |
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日本の民俗学の黎明期(れいめいき)、柳田国男と並ぶもう一人の巨頭が南方熊楠(みなかたくまぐす)だ。幼少から異常な記憶力を誇ったクマグスは、日本での教育システムに馴染むことができず、やがて民俗学から宗教・歴史・文学・植物学等を綜合(そうごう)した博物学的な研究を展開する。『ネイチャア』等世界的に権威があるとされる雑誌への投稿によって、研究を発表したため、その名は日本国内よりもむしろ海外に知られていたとも言える。そのクマグスの研究対象のひとつが「粘菌(ねんきん)」で、タイトルにもなっている「ミナカテラ」はクマグスが発見した粘菌の名だ(ミナカタという姓にちなんでいる)。というのは物語にとってはそれほど重大事ではなくて(笑)、そんな変わり者で偏屈な天才学者が生きた明治の時代を描いた作品だということだ。 我が道を行くクマグスの周辺には、ベースボールの魅力に見せられて大学予備門を落第してしまう正岡子規や、政治運動を経て憂国詩人となってゆく北村透谷など、実在の人物が登場し、歴史ファン・文学ファンにとっても見るべきものありだ。そうした実在の人物の中で、クマグスと並んで主人公に据えられているのは、唯一架空の人物である「平太郎」だ。母や、女工になっている妹の支援をあおぎ、苦しい家計の中で学問に励み、様々に思い悩みながらもやがて実業界の大物になって行く。実業に結びつかないものはすべてをそぎ落とし、その果てに見たものは・・・ 実業家・平太郎を主人公に据えることによって、その対極にあって、実学とは無縁の世界で学問に没頭するクマグスのあり方が、おのずと浮かび上がってくる。いわば、クマグス本体をアピールせずに、影を描く事によってその本体を浮かび上がらせるという寸法だ。その構図が成功している事に加えて、平太郎の心の隙間、クマグスの我が道を行く爽快さ、そしてギャグをまじえながら、いたるところに恩着せがましくないせつなさが溢れていて、見事な逸品だ。 高校の頃このマンガを読んだ時、自由民権運動に身を投じながら、理想と現実の狭間で挫折した北村透谷のくだりには感動してしまった。とりわけ、桜散る中で「泣かん乎(か)笑はん乎(か)、迷ふ事久し。われに命ずる者あり、曰く、憂ひよ」と詠じるくだり! 後に北村透谷の詩集を買って読んでしまったほどだ(笑) ちなみに第二部でクマグスはアメリカに渡るのだが、その途中で連載が終わってしまった。なんでも編集者との確執の為だそうだ。惜しい!!(2002.8) |
『南くんの恋人』 |
かつてドラマ化された頃は全く興味が無かったのだが、ある日突然読んでみた。ら、ずいぶん 心痛む話で、ほとんど読んで後悔した。小さくなったという突飛な現実を受け入れざるを得ないところ、そしてそれ以外は日常と何も変わっていないところは、カフカの『変身』と同じ設定だが、恋人間の問題という事で男女間の問題に焦点が絞られていて、それだけに先鋭化した痛みを残す作品だ。何もかも普通な男女間に於いて、その普通であるという根幹が揺らいだ時、二人はどうなるのか? すべてを受け入れ、どうにもならない現実を通り過ぎてなお、確かに幸せを感じたのか。その幸せが、「普通」の幸せと異なるのは、どこだったのか。。。そんなすべての言葉を越えて、痛ましいという思いに尽きる。ドラマではどうやって終わったのだろう?? こうした結末を描く内田春菊は、性をも人生をも、自分の視座から見透して描く作家なのだと思った。(2002.8) |