2006.1.2 更新
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一言書評
海外の小説・随筆




『金瓶梅(全10巻) 訳/小野忍・千田九一 岩波文



(あらすじ)
中国、明代に成立した古典小説。舞台は宋代。『水滸伝』の豪傑の一人、虎退治でおなじみの武松から物語は説き始められる。武松の兄嫁を寝取った西門慶が、大臣に賄賂を送って役人になり、金にあかして何人もの妾を囲い、豪遊と淫楽の限りを尽くす物語。これと思った女を手に入れる為には、人殺しも厭わず、良心の呵責を覚える事もない。さんざん好き放題をやったあげく、西門慶は不摂生がたたって若死にするが、その婿養子がまた、それに輪を掛けた放蕩児にて、因果は巡る。とにかく、古典小説とは思えぬほど悪逆無比な大金持ちの主人公が放つ精彩は、中国文学史上でも特異な位置を占める。


(一言書評)正当派の知識人が堂々と読む事を憚(はばか)られた「淫書」だが、そこに描かれた性の饗宴は、一読の価値がある。さながら、現代のアダルトビデオの全てのジャンルを網羅しているかのような感があり、すさまじい。様々な事件と宴会とが延々と続くのだが、市井の様子、官界との付き合い、地方行政の乱雑などがよく描かれていて、当時の社会風俗を彷彿とさせる。西門一族の悲惨な末路までが描かれている事から、これを単なる淫書ではなく、誡(いまし)めの書だとする説もあるが、基本的には乱れた風俗の描写そのものが書き手の意図であり、読み手もまたそれを楽しんだのであろうと思われる。

とにかく西門慶は性欲の権化で、ドラッグ、大人のおもちゃ、同性愛、近親相姦と、なんでもありの性の饗宴(狂宴と言ってよいだろう)を繰り広げ続けるのだが、その点について、張競氏は『恋の中国文明史』(ちくま学芸文庫)でこう述べている。

「彼はその超人的な能力をもってほしいまま美人を征服していく。しかしそれは単に性欲の満足を求めることを意味するものではない。超人的な性的能力への妄想はむしろ恋の永続を祈願する哀れな心象を映し出す鏡となっている。男女の精神的な融合を求める最後の手段として、もはや性の過剰しか残っていなかったからである。」

これは現代人の目から見た解釈であり、或いは『金瓶梅』の作者の真相からは外れているかも知れない。しかし、私はこの理解に大いに共鳴する。「恋の永続を祈願」する余りの「性の過剰」、あまりにも切なくはないだろうか。(2001.5.27読了)



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