2009.8.9 更新
A Rainy Day トップページに戻る
故事成語で見る中国史に戻る


故事成語で見る中国史

推敲
(すいこう)


詩文を作るのに字句をさまざまに考え練ること。(広辞苑)

用例:「レポートの文章、これで提出しても大丈夫かな?」
    「わかりにくいところがあるから、
    もう少し推敲(すいこう)を重ねた方がいいかもね」


(出典)【唐詩紀事】巻四十より

島赴擧至京。騎驢賦詩、得僧推月下之門之句。欲改推作敲、引手作推敲之勢。未決、不覺衝大尹韓愈。乃具言。愈曰、敲字佳矣。遂並轡論詩。

(書き下し)
(とう)(きょ) に赴(おもむ) き京(けい) に至る。驢(ろ) に騎(の) りて詩を賦(ふ) すに、僧は推(お) す月下の門の句を得たり。推を改めて敲に作らんと欲し、手を引きて推敲(すいこう) の勢(せい) を作(な) す。未(いま) だ決せずして、大尹(たいいん) 韓愈(かんゆ) を衝(つ) くを覺(おぼ) えず。乃(すなわ) ち具(つぶさ) に言う。愈曰(いわ) く、敲の字佳(よ) からんと。遂(つい) に轡(たづな) を並べて詩を論ず。

(語注)
○島:賈島(かとう)。中唐の詩人。
○擧(きょ):科挙(かきょ)。官吏登用試験。
○推:押す。
○敲:たたく。
○大尹(たいいん):天子側近の寵臣。
○韓愈(かんゆ):中唐の政治家・詩人。
○具:つぶさに。くわしく。
○轡:たづな。転じて馬。日本では「くつわ」の意。

(現代語訳)
賈島は科挙(かきょ)の試験を受けるために、都・長安に赴(おもむ)いた。あるとき驢馬(ろば)に乗りながら詩を作っているうちに、「僧は推(お)す月下の門」という句を思いついた。その句の「推(お)す」という語を「敲(たた)く」に変えたならばどんな感じになるだろうかと、手でその動作をしてみながら悩んでいた。「推」と「敲」のどちらするか、決められずに悩んでいるうちに、うっかり政府の高官である韓愈(かんゆ)の一行にぶつかってしまった。賈島が、非礼にもぶつかってしまった理由をくわしく述べると、韓愈は「そこは「敲(たた)く」にした方がよかろう」と言い、二人はそこから意気投合して、馬を並べて詩について語り合った。


(解説)
7〜9世紀にかけて、中国に君臨した唐王朝。シルクロードを通じて、様々な文物や文化の交流も行われました。そうした開放的な雰囲気の中、中国文化の精華(せいか)の一つ、漢詩もピークの時代を迎えました。

文学史では、しばしば唐代を「初唐」「盛唐」「中唐」「晩唐」の四つの時期に分けて考えます。その「盛唐」と「中唐」の間に、安史の乱(8世紀中頃)という国を揺るがせた一大反乱がはさまっています。

文学史上、その名を燦然(さんぜん)と輝かせた李白は「盛唐」、杜甫(とほ)は「盛唐」から「中唐」にかけて、多くの作品を残しました。李白の作風は、奔放なまでに開放的で浪漫的、そして時に幻想的ですらあります。詩に盛り込まれた揺れ幅の大きな感情の豊かさと、スケールの大きな自在な比喩は、まことに天才の名にふさわしいものでした。一方の杜甫は、唐王朝の力がピークを過ぎ、激しく揺れ動く時勢の中で、自分にも世の中にも真摯(しんし)に向かい合い、現実的で重厚な作風の作品に、深い憂いを託しました。

漢詩は、この李白と杜甫に代表される盛唐〜中唐期に、他の時代の追随(ついずい)を許さない、ひとつの高みを実現したといえるでしょう。

では、そうした高みを見せつけられた中唐以後の詩人たちは、自らの個性を発現するための新しい地平をどのような方向に求めることになったのでしょうか。

ごくおおざっぱに言えば、明快な詩を目指す詩人と、難解な詩をものす詩人との二つの流れが現れました。平明な語彙(ごい)を用いて、より分かりやすい作風の詩を目指した詩人の代表格に、白居易(はくきょい)や元シン(「禾」に「眞」)(げんしん)がます。一方、難解な語や人の知らない故事を好んで用いて詩を作った代表的な人物に、韓愈(かんゆ)がいます。そして、その韓愈の系統に、賈島(かとう)という詩人がいました。

賈島は漢詩をつくる際、脂汗(あぶらあせ)をにじませて悩みに悩みぬき、ほとんど命を削るようにして、一字一句を定めていった詩人です。その詩作に対する態度は、まさしく苦吟派というにふさわしいものでした。

その賈島、役人になるべく科挙(かきょ)の試験を受けるために都・長安にやって来たのですが、そんな折りにも詩のことが頭を離れず、あるとき驢馬(ろば)の背にゆられながら、一句をひねります。その中で、次のような一節を思いつきました。

鳥宿池辺樹   鳥は宿る 池辺の樹
僧推月下門   僧は推(お)す 月下の門(※1)

静まりかえって、月明かりだけがあたりを照らす夜、ある僧侶が友人宅を訪れて、その門を開ける、というシーンです。賈島は僧侶だった時期があるので、この詩中の僧侶も自分をイメージしているのかとも思われます。

しかし、この一節を噛みしめてみて、「僧は推(お)す」よりも、「僧は敲(たた)く」の方がよいのではないか、と賈島は迷います。

もし門を「推(お)す」のであれば、その音は「ぎいい〜」といった感じであり、屋敷の友人はその僧侶の来訪をすでに知っており、勝手に入ってゆくことになります。一方「敲(たた)く」にすれば、月明かりの下に「ゴンゴン」という音が響くはずで、屋敷の友人は、その音によって僧侶の来訪を知ることになります。

このどちらのイメージで詩を作るか、街なかであるのも忘れて、驢馬(ろば)に揺られながら賈島は悩みに悩みます。そして詩に気を取られるあまり、うかつにも政府の高官・韓愈(かんゆ)の一行にぶつかってしまいます。

もちろん本来ならば、賈島が道をゆずらなければならず、大変な非礼にあたることは言うまでもありません。賈島はあわてて、ぼんやりしていた理由をくわしく韓愈に話しました。

すると、詩人としても名の通った韓愈のこと、賈島の非礼をとがめず、少し考えてから「そこは「敲(たた)く」とした方がよかろう」とアドバイスしたのです。そこから二人は意気投合して、身分の高下もよそに、馬を並べて詩作について語り合う仲になったといいます。賈島のこの故事から、文章を書く際に、じっくり考えて、よりふさわしい字句を選ぶことを「推敲(すいこう)」と言うようになりました。

実際には、まだ賈島が僧侶だった頃、僧侶は午後外出してはならないという法令が出され、それを嘆いて賈島がつくった詩を韓愈が認めて、そこから二人の交友が始まったといいます。(※2) しかし後代、この「推敲」の故事の方が広く知られるようになりました。(※3)

賈島は、墓碑銘(ぼひめい)にも「名は高く、位は低く」と見えるほどで、官吏としては望むような出世を果たすことはできませんでした。(※4)しかし、執着(しゅうちゃく) した詩句にまつわる故事に名を残せたのは、あるいは本望(ほんもう)であったかも知れません。

ところで余談になりますが、日本の江戸時代の儒者であり歴史家でもある頼山陽(らいさんよう)に、武田信玄と上杉謙信がしのぎをけずった川中島の戦いを詠(よ)んだ次のような詩があります。(※5)

鞭声粛々(べんせいしゅくしゅく) 夜 河(かわ)を過(わた)
(あかつき)に見る 千兵の大牙を擁するを
遺恨(いこん)なり 十年 一剣を磨(みが)
流星光底 長蛇(ちょうだ)を逸するを

詩吟などでも好んで謡(うた)われ、とりわけ冒頭の「鞭声粛々 夜 河を過る〜♪」などは人口に膾炙(かいしゃ)した名文句ですね。そして、その三句目に見える「十年一剣を磨く」というのは、実は賈島の詩に見える文句です。(※6)

剣を振るう機会が訪れるのかどうかは、分からない、しかしその時が来るまで、十年もの長き間、ただ一振(ひとふ)りの剣を磨きつづける・・・ほとんど執念(しゅうねん)とも言えるまでに、一つことに執着するエネルギー。「推敲」の故事を知る者には、「十年一剣を磨く」剣客(けんかく)に賈島自身の姿が重なってみえるのも、決して故(ゆえ)無きことではないと言えるでしょう。


(※1) 賈島「題李凝幽居」。闍緒ュ隣並。草徑入荒園。鳥宿池邊樹。 僧敲月下門。過橋分野色。移石動雲根。暫去還来此。幽期不負言。尚、李凝という人物に関しては未詳。「池邊」を「池中」に作るものもある。
(※2) 『新唐書』巻一百六十七「韓愈伝」附「賈島伝」。
(※3) 「推敲」の故事は、、『鑑誡録』『野客叢書』『詩人玉屑』『唐才子伝』等の諸書に引かれる。また、『佩文韻府』は「推敲」の出典として『隋唐嘉話』を、『續軒渠集』は『劉禹錫嘉話』を引く。『ショウ(糸へんに相)素雑記』にも見えるらしいが未確認。
(※4) 蘇絳「唐故司倉参軍賈公墓銘」。
(※5) 頼山陽「不識庵、機山を撃つの図に題す」。不識庵は上杉謙信、機山は武田信玄。
(※6) 賈島「剣客」。十年磨一剣。霜刃未曽試。今日把似君。誰為不平事。

当HPの文章・写真を転載する際は、
管理人・バルカまでご一報下さい。

A Rainy Day
Since 2000.12

トップページに戻る
故事成語で見る中国史に戻る