2003.5.22 更新
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故事成語で見る中国史
酒は百薬の長
(さけはひゃくやくのちょう)
(出典)【漢書・巻二十四下・食貨志下】より 夫鹽食肴之將、酒百薬之長、嘉會之好。鐵田農之本、名山大澤、饒衍之臧。 (書き下し) 夫(そ)れ鹽(しお)は食肴(しょくこう)の将、酒は百薬の長、嘉會(かかい)の好なり。鐵(てつ)は田農の本(もと)、名山(めいざん)大澤(だいたく)は饒衍(じょうえん)の臧(ぞう)なり。 (語注) ○嘉會(かかい):めでたい会合。 ○大澤(だいたく):大きな沢、河川、湖沼。 ○饒衍(じょうえん):豊富でありあまっているさま。 (現代語訳) そもそも塩は食物に最も肝心なもので、酒は多くの薬の中で最もすぐれており、めでたい会合で嗜(たしな)むよきものである。鉄は農耕の基本となるものであり、名山や大きな湖沼(こしょう)は、(狩猟や漁業の)豊饒(ほうじょう)な蔵(くら)なのである。 (解説) 前3世紀末、劉邦(りゅうほう)が興(おこ)した漢王朝は、その後、およそ四百年の長きにわたって中国に君臨しました。ただし、その統治のちょうど中頃、西暦8年から23年にかけて、「新」という王朝に取って代わられました。そのため、漢王朝は「新」を挟んでそれぞれ「前漢」「後漢」と呼ばれます。(※1) 「新」を建国したのは、漢の元帝(前48〜前33年在位)の皇后の甥にあたる王莽(おうもう)という人物です。王氏は名門でしたが、王莽はその中では貧しい家に生まれ、若くから儒学の教えを学び、礼法にかなった謙虚な振る舞いで人望を集めました。 しかし実際には、彼の謙虚さはすべて計算尽くのもので、権勢を手に入れるために、あらゆる手を尽くします。出世と名声のためには、自分の息子すら何人も犠牲にしたほどで、王莽の妻はそのことで悲嘆の涙にくれ、失明してしまったというほどです。(※2) 王莽の出世を支えた大きな手段は、たくみな輿論(よろん)操作でした。 当時、すべての事物は「木・火・土・金・水」という五つの要素に分類され、その相互作用によってあらゆる事象が発生する、という「五行(ごぎょう)思想」が流行していました。また、伝統的な儒教の経典に、独自な解釈を施し、そこに未来の予言を読み取ろうとする「讖緯(しんい)説」、さらに、天がその意志を何らかの瑞祥(ずいしょう:めでたいしるし)で示すという「符命(ふめい)」なども信じられていました。 王莽はこれら「五行思想」「讖緯説」「符命」等を駆使して、自作自演の瑞祥を次々と報告させ、「漢の劉氏から王莽のもとに天命が移ろうとしているのだ」という輿論(よろん)をたくみに形成してゆきました。 王莽はやがて、12歳の平帝を毒殺して、わずか2歳の孺子嬰(じゅしえい)を擁立(ようりつ)し、自らは「仮皇帝」と名乗ります。そして善人の仮面をかぶったまま、自作自演の輿論(よろん)におされる形で、「天意には逆らえない」として、やがて自ら皇帝の位につきます。国号を「新」と定め、ここに「漢(前漢)」の命脈はいったん途絶えました。 儒教の理念の体現者として名声を得てきた王莽は、皇帝になると、儒教に基づいた復古的な政策を矢継ぎ早に施行しました。王莽は、「制度さえつくってしまえば、天下は自ずと安定するのだ」という考えを持っていたようです。(※3) かつて孔子が理想としたという周公の政治の再現を目指し、その当時の官制を伝えるという書物『周礼(しゅらい)』に基づいて、次々と太古の時代にもどるかのような制度に改めてゆきます。 しかし、現実を見すえようとせず、時代の流れに逆行する教条主義的な復古政策が、人民に受け入れられるはずがありません。あまつさえ、制度や官爵名は毎日のように変更され、役人はその変更に追われて、実務は滞(とどこお)ってゆくばかりです。 こうした中で、王莽が施行した政策の一つに、「五均(ごきん)」「六管(ろっかん)」(※4)というものがあります。「五均」とは国家による物価統制であり、「六管」とは酒・塩・鉄・銭の鋳造(ちゅうぞう)・名山・大沢(だいたく)を国家が管理するというものです。山や河川・湖沼を国家の管轄下に置くのは、それぞれ採集・狩猟や漁業を管理するためです。 これらの法令も、やはり古代の制度にのっとったものですが、現場の役人の汚職もひどく、期待通りには運用されません。それを憂(うれ)えた王莽は、これらの法令は古代の聖賢の考えによるのだ、と強調する詔(みことのり)を出しましたが、その中に次のような一節があります。 「そもそも塩は食物に最も肝心なもので、酒は百薬の長、めでたい会合で嗜(たしな)むよきものである。鉄は農耕の基本となるものであり、名山や大きな湖沼(こしょう)は、狩猟や採集、漁業の豊饒(ほうじょう)な倉庫なのである。」 生活に必要なものとして、塩や農耕用の鉄器と並んで酒をあげ、「百薬の長(ひゃくやくのちょう)」、すなわち「多くの薬の中でももっともすぐれているもの」として述べています。ここから後世、酒をよいものとして擁護(ようご)する言い回しとして「酒は百薬の長」が広まりました。 ちなみに「酒は百薬の長」と言った王莽は、やがて「赤眉(せきび)」「緑林」等の反乱に追われ、ついには斬殺されて、「新」はあえなく滅び、再び劉氏による「漢(後漢)」王朝が興されました。 各地で反乱の火の手があがると、王莽は「符命」による奇跡が起こるのを祈るしかなく、憂鬱で食事も進まず、鰒魚(あわび)を食べてはもっぱら酒を飲んでいたといいます。こうなっては、「百薬の長」という言葉とともに空しいばかりですね。 ところで、中国では飢饉の時、食物として貴重な穀物を用いて酒を造ることをを禁じる法令が、しばしば出されました。後漢末の群雄で、三国・蜀(しょく)の皇帝になった劉備(りゅうび)も、旱魃(かんばつ)の折りには酒の醸造(じょうぞう)を禁じる法令を出しました。 劉備配下の役人がある家を捜査したとき、酒を醸造する器具を見つけます。その役人は、酒造の器具を持っていた者も、酒を造った者と同罪にしようとしました。 そんな時、劉備の部下で、古くからの友人でもある簡雍(かんよう)という人物は、劉備と歩きながら街を見て回り、一組の男女を見かけるると、こう言いました。「あの者たちは、淫らな行いをしようとしております。どうして捕縛(ほばく)しないのですか」 劉備が「どうしてそう分かったのかね?」と問うと、簡雍は「かの者たちは淫らな行いをする道具を持っております。酒を醸造しようとする者と同じであります」とこたえました。それを聞くと、劉備は大いに笑って、酒を醸造しようとしていた者を許してやったといいます。(※5) さて、中国には「酒は百薬の長」の他にも、「酒は天の美禄(天から賜ったすばらしい俸禄)」など、酒を称えた言葉が色々とありました。(※6) その中でも有名なのが、蘇東坡(そとうば)の名で知られる宋の蘇軾(そしょく)の「掃愁帚(そうしゅうしゅう)」という言葉です。すなわち「愁いをはらう帚(ほうき)」の意で、(※7) 日本でも「酒は憂いの玉箒(たまぼうき)」の言葉で知られています。 また、日本では「甘いものは別腹(べつばら)」などと言われますが、中国では「酒に別腸(べっちょう)有り」と言われました。(※8) ちなみに、卑弥呼(ひみこ)の時代に相当する古い日本に関して、「人は生まれながら酒を好む」と見られ、日本でも飲酒の風習があったことが分かります。(※9) 中国では、酒にまつわる逸話に事欠きません。酒は祭祀(さいし)や儀礼、そして庶民の生活にも密着した必需品です。政治や経済の場であれ、個人の嗜好(しこう)としてであれ、愁いをはらう百薬の長ともなれば、我が身はおろか国家まで滅ぼすもとともなる酒。しかしその危うさは、酒そのものにあるのではなく、杯(さかずき)を手にしたとき、大らかにもなれば弱くもなる人間の心にあるのだと、古今東西の歴史が語りかけて来るようです。 (※1)前漢は西の長安に、後漢は東の洛陽に都をおいたため、中国ではそれぞれ「西漢」「東漢」と呼ばれる。 (※2)『漢書』巻九十九下「王莽伝・第六十九下」。 (※3)『漢書』巻九十九中「王莽伝・第六十九中」。 (※4)「六管」は「六斡」「六カン(竹かんむりに完)」とも書く。 (※5))『三国志』巻三十八「蜀書・簡雍伝」。 (※6)『漢書』巻二十四下「食貨志下」。 (※7)蘇軾「洞庭春色」。 (※8)『通俗篇』引『五代史』。また、『資治通鑑』巻二百八十三にも見え、胡三省注に「此俚俗之常語(民間でよく言われる言葉だ)」とある。 (※9)『三国志』巻三十「東夷伝」、『後漢書』巻八十五「東夷列伝」。 |