2009.8.9 更新
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故事成語で見る中国史

塞翁が馬
(さいおうがうま)

人生は吉凶・禍福が予測できないことのたとえ。
塞翁失馬。人間万事塞翁が馬。(広辞苑)

用例:「こう悪いこと続きじゃ、やる気もなくなるね」
「人間万事、塞翁が馬だ、腐らずにやってみよう」

(出典) 【淮南子・人間訓】より
近塞上之人、有善術者。馬無故亡而入胡。人皆弔之。其父曰、此何遽不為福乎。居數月、其馬將胡駿馬而帰。人皆賀之。其父曰、此何遽不為禍乎。家富良馬。其子好騎、墜而折其髀。人皆弔之。其父曰、此何遽不為福乎。居一年、胡人大入塞。丁壮者引弦而戦。近塞之人、死者十九。此獨以跛之故、父子相保。故福之為禍、禍之為福、化不可極、深不可測也。

(書き下し)
塞上に近きの人、術を善(よ)くする者あり。馬故(ゆえ)無くして亡(に)げて胡に入(い)る。人皆之(これ)を弔(ちょう)す。其の父曰く、此れ何遽(なんぞ)(さいわ)いと為(な)らざらんやと。居(お)ること數月、其の馬、胡の駿馬を將(ひき)いて帰る。人皆之(これ)を賀す。其の父曰く、此れ何遽(なんぞ)(わざわ)いと為(な)らざらんやと。家良馬に富む。其の子騎を好み、堕ちて其の髀(ひ)を折る。人皆之(これ)を弔す。其の父曰く、此れ何遽(なんぞ)(さいわ)いと為(な)らざらんやと。居(お)ること一年、胡人大いに塞に入る。丁壮(ていそう)なる者は弦を引きて戦う。塞に近きの人、死する者十に九。此れ獨(ひと)り跛(は)の故(ゆえ)を以て、父子相保つ。故に福(さいわ)いの禍(わざわ)いと為(な)り、禍(わざわ)いの福(さいわ)いと為(な)る、化極むべからず、深きこと測るべからざるなり。

(語注)
○塞:(国境近くの)とりで。
○胡:異民族。えびす。
○將:率いる。
○弔:いたむ。哀れむ。
○何遽(なんぞ):どうして。
○賀:喜ぶ。祝う。
○髀:股(もも)
○丁壮:血気盛んな男子。一人前の男子。
○弦:ゆみづる。
○跛:足が不自由なこと。

(現代語訳)
辺境の砦(とりで)の近くに、占いの術に長(た)けた者がいた。ある時その人の馬が、どうしたことか北方の異民族の地へと逃げ出してしまった。人々が慰めると、その人は「これがどうして福とならないと言えようか」と言った。数ヶ月たった頃、その馬が異民族の地から駿馬を引き連れて帰って来た。人々がお祝いを言うと、その人は「これがどうして禍(わざわい)をもたらさないと言えようか」と言った。やがてその人の家には、良馬が増えた。その人の子供は乗馬を好むようになったが、馬から落ちて股(もも)の骨を折ってしまった。人々がお見舞いを述べると、その人は言った。「これがどうして福をもたらさないと言えよう」一年が過ぎる頃、砦に異民族が攻め寄せて来た。成人している男子は弓を引いて戦い、砦のそばに住んでいた者は、十人のうち九人までが戦死してしまった。その人の息子は足が不自由だったために戦争に駆り出されずにすみ、父とともに生きながらえる事ができた。このように、福は禍となり、禍は福となるという変化は深淵で、見極める事はできないのである。



(解説)

火薬・羅針盤・活版印刷は「人類の三大発明」と呼ばれ、それらの技術の改良が、ルネサンス期以降の西欧文明発展の起爆剤となりました。「三大発明」が実用化され普及したのは西欧でしたが、発明という事に限って言えば、いずれも中国が先んじていました。古代の東アジアでは、漢民族を中心とする中国は、政治・経済・軍事・科学・思想のいずれの面に於いても圧倒的な力を持った超大国でした。

圧倒的な高みから自分たちの周辺を見回した漢民族の目には、周辺の少数民族は、すべて哀れむべき未開民族として映りました。漢民族の心中に「我らこそ世界の真ん中で、最も優れた文化を有しているのだ」という、いわゆる「中華思想」が芽ばえたのも、当然のなりゆきであったと言えるでしょう。

そうした漢民族の優越意識は、彼らが中国の周辺に位置する異民族をどう呼んだかに端的(たんてき)に現れました。すなわち、東西南北の異民族を、それぞれ「東夷(とうい)」「西戎(せいじゅう)」「南蛮(なんばん)」「北狄(ほくてき)」と、蔑(さげす)みを込めて呼んだのです。古代日本の邪馬台国(やまたいこく)とその女王・卑弥呼(ひみこ)は、『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』と呼ばれる書物にその記録が見えますが、それが含まれているのは、『三国志』の中の『魏書・東夷伝』です。日本もまた、中国からすれば周辺の未開な「東夷」の一部族だったのです。

しかし実際には、漢族の中国も強大で無敵な時代ばかりではなく、周辺の異民族の圧力に頭を悩まされる事もしばしばありました。元王朝や清王朝などは、いずれも異民族が中国に君臨した時代ですが、それよりはるか昔から、異民族との紛争は絶える事がありませんでした。秦の始皇帝が万里の長城を築いたのも、異民族の侵入を防ぐ為でした。また漢の時代にも異民族との紛争は激しく、歴代皇帝が最も神経をとがらせた問題の一つでした。後宮の宮女でありながら、匈奴の王である単于(ぜんう)の妻にと差し出された女性に、王昭君(おうしょうくん)がいます。また異民族に拉致され、異民族のもとで2人の子供を生みながら、後に哀れに思った曹操(そうそう)の配慮によってまた中国に戻ることになった蔡文姫(さいぶんき)など、異民族との紛争がもたらした悲劇は数限り有りません。

王昭君や蔡文姫のような身分のある人々ですら、異民族との紛争にまきこまれて数奇な人生を送る事を余儀なくされたのですから、国境付近の民衆の生活が、往々にして悲惨だった事は想像に難くありません。住んでいる村が戦場になれば、若者は徴兵され、食料は徴発されます。そして異民族に勝てればまだ救いもありますが、負けてしまおうものなら、村は蹂躙(じゅうりん)され、若い男は皆殺し、女は陵辱されるという地獄絵図にもなりかねませんでした。

そんな危険の絶えない国境近くのある村に、老人が住んでいました。占いの術に長(た)けていたその老人は、人々から「塞(とりで)の近くに住んでいる翁(おきな)」、すなわち「塞翁(さいおう)」と呼ばれていました。ある時、その老人の飼っていた馬が、北方の異民族の地へと逃げて行ってしまいました。馬は貴重な労働力であり、財産です。人々が「お気の毒に」と声を掛けると、その老人は「いやいや、これが福をもたらさないとも限らないさ」と応(こた)えました。数ヶ月たったある日、逃げていった馬が、異民族の地から駿馬を引き連れて帰って来ました。人々が「おめでとうございます」とお祝いを述べたところ、老人は今度は「いやいや、これが災いを引き起こさないとも限らない」と応えました。

やがて家には良馬が増え、老人の息子は乗馬を好むようになりましたが、ある時馬から落ちて、股(もも)の骨を折ってしまいました。人々が「お気の毒に」と慰めると、老人は「いやいや、これが福をもたらさないとも限らないよ」と応えました。それから一年ほどすると、異民族が国境に攻め寄せて来ました。健康な男子は皆、弓を手に取って戦場に赴き、塞(とりで)の近くに住む若者は、十人のうち九人までが戦死してしまうほどの惨状でしたが、老人の息子は足が不自由だったために戦いに駆り出されずに済み、父子ともに無事だったといいます。この逸話から、幸福と不幸とは見定めがたく、複雑に絡(から)み合っていて予測ができない、という事を「塞翁が馬」と言うようになりました。

「塞翁が馬」の逸話は『淮南子(えなんじ)』という書物に見えます。『淮南子』は、漢の劉邦の孫の淮南(わいなん)王・劉安によって編纂された百科全書的な書物です。日本では「人間万事、塞翁が馬」というフレーズでよく用いられますが、これは後の元の時代の僧・煕晦機(きかいき)の詩に見える言葉です。(※1)ちなみに「人間万事」は普通「にんげん ばんじ」と読まれますが、中国語の「人間」という言葉には「にんげん」の意味はなく、「世の中」「世間」を意味し、日本でも漢文では慣習的に「じんかん」と読まれます。

また、「塞翁が馬」と同じ意味で使われることわざに「禍福(かふく)は糾(あざな)える縄(なわ)の如し」というものがあります。「不幸と幸福とは、より合わせた縄(なわ)と同じように複雑に絡み合っていて、それを解きほぐす事は難しいものだ」という言葉です。こうした同じ意味をもつ言い回しをざっと見てみると、

『老子・第五十八章』
(わざわ)いは福(さいわ)いの倚(よ)る所、
(さいわ)いは禍(わざわ)いの伏する所、
(たれ)かその極(きわみ)を知らん。

『カツ(「曷」に「鳥」)冠子・巻下』
(わざわ)いは福(さいわ)いの倚(よ)る所、
(さいわ)いは禍(わざわ)いの伏する所、
(わざわ)いと福(さいわ)いとは糾(あざな)える纏(なわ)の如(ごと)し。

『戦国策・燕策』
聖人の事を制する也(や)
(わざわ)いを転じて福(さいわ)いと為(な)し、
敗に因(よ)りて功を為(な)す。

『荀子・大略』
(わざわ)いと福(さいわ)いとは隣して、其の門を知ること莫(な)し。

賈誼(かぎ)『フク(「服」に「鳥」)鳥の賦』
(わざわ)いは福(さいわ)いの倚(よ)る所、
(さいわ)いは禍(わざわ)いの伏する所なり。
憂喜門に聚(あつま)り、吉凶域(さかい)を同じくす。

『説苑(ぜいえん)・巻十六』
(さいわ)いは禍(わざわ)いの門なり。是は非の尊なり。治は乱の先なり。

『十八史略・唐・高祖』より李世民の言葉
民心に順ひて義兵を興し、禍(わざわ)いを転じて福(さいわ)いと為(な)さん。

などなど。細かく探せば、これに類する言葉はほとんど無限に見つかることでしょう。豊作を喜んだかと思えば、凶作・飢饉に見舞われ、名君による治世があったかと思えば、暗君が出現して暴政に見舞われる。古代の生活では、天災・人災ともに、自分たちにはどうする事もできない出来事が、次々と降りかかって来たはずです。類似した表現がかくも多く用いられている事からも、人々がいかに自然や政治に翻弄され続けたかが窺えそうです。

運不運に一喜一憂せず、様々な出来事をあるがままに受け入れるしかないのだ、という鷹揚(おうよう)な発想は、漢民族の意識に深く根ざして行きました。幸福な時にも舞い上がらないし、不幸な時にもしゃかりきにもならなければ、投げやりにもならない。その言葉尻だけを捕らえれば、人生に対して消極的だと思われるかも知れません。しかし、それが厳しい現実を生き抜いた人々によって紡(つむ)がれた言葉である事を考えれば、そこに消極的というのとも異なる、しなやかな強さを感じる事ができそうです。


(※1)煕晦機(元煕禅師)『径山の虚谷和尚に寄す』参照。

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