2009.8.9 更新
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故事成語で見る中国史

李下に冠を正さず
(りかにかんむりをたださず)

他人の嫌疑を受けやすい行為は避けるようにせよとの意。
「李下の冠」とも。(広辞苑)

用例:「事あるごとに疑われて、かなわないよ」
      「まぎらわしいマネをしない事だ。李下に冠を正さずだ」

(出典)【古楽府・君子行】より
君子防未然、不處嫌疑間。瓜田不納履、李下不正冠。

(書き下し)
君子は未然(みぜん)に防ぎ、嫌疑(けんぎ)の間(かん)に處(お)らず。瓜田(かでん)に履(くつ)を納(い)れず、李下(りか)に冠(かんむり)を正さず。

(語注)
○納:いれる。
○履:くつ。

(現代語訳)
君子たるものは、人から疑いを招くような事を未然に防ぎ、嫌疑をかけられるような振る舞いはしないものだ。(取ろうとしていると勘違いされぬように)瓜(うり)畑の中で靴を穿(は)くような仕草をしたり、李(すもも)の木の下で冠をかぶりなおしたりはしないものだ。



(解説)

儒学の教えでは、礼儀作法と並んで音楽の重要性が強調されました。音楽の調和の中に、バランスのとれた人間性の高みを見たのです。儒家の祖である孔子も音楽の調和を非常に高く評価していました。古代の聖天子・舜(しゅん)が作ったと言われるショウ(音へんに「召」)という音楽があります。斉(せい)の国でその本格的なオーケストラを聴いた孔子は、完成度の高さにショックを受け、三ヶ月もの間、肉の味すら分からなくなってしまったといいます。(※1)

また、政治に対する天の評価が、民間のはやり歌の中にあらわれる、という考えが、古代から根強くありました。民歌に込められた天意を探るために、漢の武帝は「楽府(がふ)」という役所を創設して、民間の歌を採集させました。(※2)やがて「楽府」で採集された詩の模倣作が多く生まれると、
そうした詩の形式を「楽府」と呼ぶようになってゆきます。

漢代の初期の楽府詩には、作者を特定できないものもあります。素朴な言葉で綴られてはいますが、その中には、役人・庶民を問わず、戒(いまし)めとするべき警句が見られる事もあります。その一つに、『君子行』という歌があります。

君子たるもの、人から疑われるような事は未然に防ぎ、
嫌疑を受けるようなところには、身を置かないものだ。
(うり)の畑では、しゃがみこんで
靴を穿くような仕草(しぐさ)をすべきではないし、
(すもも)の木の下で、冠をなおしたりはしないものだ。
密通を疑われないよう、兄嫁とは親密に接するべきではないし、
年少者は年長者と対等な口をきいてはいけない。
功績があってもへりくだれば権力を得る事ができる。
自分の才能をひけらかさずに、世間と協調するというのは難しいものだ。
周の武王の弟・周公は、(偉大な政治家であったが)かやぶきの家に住み、
食事中でも入浴中でも、来客があればすぐに出迎えた。
そうした態度であったからこそ、後世、聖賢と称されたのだ。(※3)

歌というよりは、当時の人々が知っていた故事を連ねた処世訓のようですね。瓜の畑でしゃがみ込んで、脱げた靴を穿きなおそうとすれば、瓜を盗もうとしていると思われても仕方がありませんし、李(すもも)の木の下で、冠(かんむり)をなおそうとして頭上に手をかざせば、実をもぎ取ろうとしていたと疑われてしまう事でしょう。この詩から、常に用心深く、慎み深く振る舞い、他人から嫌疑を受けそうな状況に陥らぬよう、事前に回避せねばならない、という戒めを「瓜田(かでん)に履(くつ)を納(い)れず、李下(りか)に冠(かんむり)を正さず」と言うようになりました。(※4)

中国史上、名臣と呼ばれながら、濡れ衣(ぬれぎぬ)を着せられて葬り去られた人物は、枚挙にいとまがありません。とりわけ、新王朝の成立に大功を立てながら、結局滅ぼされてしまった人々の無念は、察するに余りあります。一方、無念の涙を流した人々を教訓として、様々な手段を駆使して生き残った人物も数多いようです。君主からの嫌疑を避ける苦心がどのようであったのか、少しだけ見てみましょう。

春秋時代の范蠡(はんれい)は、越王・勾践(こうせん)に長年仕えた名臣です。臥薪嘗胆(がしんしょうたん)の故事で名高い雌伏(しふく)を経て、勾践(こうせん)が宿敵・呉を滅ぼすのを見届けると、最大の功臣・范蠡はあっさりと君主のもとを辞してしまいます。范蠡は友人に、「主君・勾践様は、艱難(かんなん)を共にする事はできますが、栄華をともに楽しむ事はできない人物です」と手紙を書いたといいます。范蠡はこの後、引っ越した先々で商売を成功させ、巨万の富を築きました。(※5)

漢の三傑の一人、張良(ちょうりょう)も、劉邦が天下を統一した後、皇室の権力闘争から遠ざかるように振る舞いました。そしてついには仙人になる事を志し、家の門を閉ざし、断食の修行に没入してしまいました。(※6)

その張良にも匹敵すると謳(うた)われた人物に、後漢末から三国時代の戦乱を生き抜き、魏(ぎ)の大臣になった賈ク(ごんべんに「羽」)がいます。彼の用心深さも凄まじく、現役の大臣でありながら、朝廷から戻ると家の門を閉ざして、私的な交遊は一切しなかったとか。(※7)

大きな手柄を立てれば立てるほど、己の人生を全うするのが難しくなるという逆説(パラドックス)を克服する為に、多くの功臣は口をつぐみ世間から遠ざかったようです。しかし彼らは、位(くらい)人臣を極めただけの事はあり、社会情勢や人間関係に於いてすぐれた観察眼の持ち主であり、事あるときには、問題に対処すべき方策を常に胸に秘めていました。君主に仕え、時には直言(ちょくげん)も厭(いと)わぬ強さがあればこそ、必要がないと判断した時には、じっと口をつぐむ事も出来たのでしょう。

他人から自分がどう見えるかを常に意識して、慎み深くあれという「瓜田(かでん)に履(くつ)を納(い)れず、李下(りか)に冠(かんむり)を正さず」の教え。同時にそれは、卑屈に引きこもる事とは一線を画(かく)する筈です。この処世訓を真に有意義に実践するためには、必要な時には「瓜田に履を納れ、李下に冠を正す」ことのできる勇気と思慮を背景に持つ必要があるのかも知れません。



(※1)『論語・述而(じゅつじ)篇』参照。
(※2)『漢書・禮樂志』参照
(※3)古楽府『君子行』は『文選』に見えますが、 「李善注本」には見えず、「五臣注本」にのみ見えます。
(※4) 漢・劉向『列女伝・辯通伝・斉威虞姫』の故事にも、「経瓜田不納履、過李園不整冠」の語が見えます。古楽府『君子行』とどちらの成立時期が早いかは不明ですが、おそらく当時の人々によく知られた言い回しだった事でしょう。
(※5)『史記・越王句践世家』参照。
(※6)『史記・留侯世家』『漢書・張陳王周伝』参照。
(※7)『三国志・魏書・賈ク伝』参照。

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