2009.8.10 更新
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故事成語で見る中国史

苦肉の計
(くにくのけい)


(苦肉)    敵を欺く手段として自分の身を苦しめること。
(苦肉の策) 考えあぐね、苦労した末に考えた策。苦肉の計。(広辞苑)

用例: 「我が社も損害を被(こうむ)るが、苦肉の計で、
     こうするしか生き延びる術(すべ)はない」

(出典)【三国志演義】 第四十六回より
君若肯行此苦肉計、則江東之万幸也。

(書き下し)
(きみ)(も)し此(こ)の苦肉の計を行うを肯(がえ)んずれば、則(すなわ)ち江東(こうとう)の万幸(ばんこう)なり。

(語注)
○肯  :肯定する、承諾する。
○江東 : 揚子江下流域。

(現代語訳)
あなたがもし、我が身を痛めつけて敵を信用させるという「苦肉の計」を引き受けてくださるというのでしたら、それは我ら江東の者にとってこのうえない幸いです。


(解説)

後漢王朝の末年は、相次ぐ天災、宦官と知識人の闘争である「党錮(とうこ)の禁」、(※1)そして新興宗教の道教をよりどころとする民衆の反乱「黄巾の乱」により、朝廷も民間も戦塵にまみれました。

後漢王朝にはもはや事態を収拾する自浄能力はなく、生き馬の目を抜くような大混乱の時代に、数多くの群雄たちをおさえて頭角を現したのが、曹操(そうそう)です。

曹操は、たとえ人格的に問題がある人物でも、すぐれた能力をもっていればためらわずに召し抱えました。

また、打ち破った反乱軍の中から精強な者を選んで「青州兵」と称して自軍に編入したり、(※2)大々的に屯田(とんでん)を行って生産力の向上をはかるなど、(※3)法家思想的な合理主義に基づき、数々の施策を推進しました。

後漢朝廷を輔弼(ほひつ:天子の政治を助けること)する、という大義名分のもと、華北を平定した曹操は、強大な政治力、軍事力を手に入れます。そして建安十三年(208)、天下統一に向けて大軍を南下させます。

南方の荊州(けいしゅう:長江中流域、現在の湖北・湖南省のあたり)は、後漢の皇族の血を引く名士の劉表(りゅうひょう)が統治していましたが、曹操の南征の直前に没してしまっており、荊州の人士は「官軍」の旗を押し立てる曹操に無抵抗で降伏しました。

荊州を手中にして、曹操の天下統一の事業は達成目前となりましたが、それに待ったをかけたのが、江東(長江下流域)を支配していた孫権(そんけん)です。

曹操は当時54歳、それよりも27歳も年下の若き領袖(りょうしゅう)孫権は、圧倒的な大軍を率いる曹操に降ることを潔しとせず、開戦に踏み切ります。

孫権軍は長江下流域を基盤にするだけあり、水軍に長じていました。その虎の子の水軍を率いて、10倍にも垂(なんな)んとする曹操軍と対峙したのが代々宰相を輩出した名門出身の颯爽たる美丈夫で、孫権の信任も厚い周瑜(しゅうゆ)です。(※4)

曹操は圧倒的な大軍を擁してはいましたが、ほとんどが北方出身の兵士であるため、南方の湿潤な気候や船での軍旅に慣れず、陣中で疫病(えきびょう)が蔓延(まんえん)していたともいいます。

こうした敵の弱点を踏まえ、周瑜は君主・孫権に対して、勝利を確信する旨の分析を披露してみせます。

周瑜率いる孫権軍と、曹操軍とは、小競り合いをしつつ対峙を続けます。そうした中で、孫権軍の黄蓋(こうがい)という宿将が、周瑜に献策をします。

曰く、「敵の曹操軍は多勢であり、我が軍は少数ですので、持久戦に入るのは不利です。ただ、曹操軍の様子を見るに、船艦どうしが密着して停泊しているので、焼き討ちをかければ敗走させることができましょう」(※5)

周瑜はこの進言を容れ、曹操の大軍への攻撃を決意します。船には燃えやすいように薪(たきぎ)や草を積み込み、そこに油を注ぐと、幔幕(まんまく)で覆ってカモフラージュしました。

さらに念を入れて、黄蓋は曹操のもとに「降伏したいのです」という内応の申し出をして、油断を誘います。

当日、黄蓋が艦隊を率いて曹操軍の陣営に接近しても、曹操軍の兵士たちは「おお、黄蓋が投降して来たぞ」と指差しながら見物しています。

そこで黄蓋は自分の艦船に火を放ち、停泊している曹操軍の艦船に突入させました。

折からの強風に煽られ、猛火は船から陸地の陣営へと燃え広がり、油断していた曹操軍は瞬く間に潰走してしまいます。世に言う「赤壁(せきへき)の戦い」です。

この敗戦によって、曹操の天下統一への事業は頓挫します。かくて、曹操が土台を築いた魏(ぎ)、孫権の呉、そして草鞋(わらじ)売りから皇帝にまでのし上がった劉備(りゅうび)の蜀(しょく)が鼎立(ていりつ)する三国時代へと時代は転回してゆくことになります。

さて、正史『三国志』に記されたこの「赤壁の戦い」の顛末(てんまつ)は、寡勢(かぜい)で大軍を撃破した例、水軍による火計のめざましい成功例として、人々の脳裡に焼きつきます。

そして伝承として膨らみをもち、千年以上も経た明(みん)代に成立した小説『三国志演義』で以下のようなプロットとして定着します。

曹操に偽(にせ)の降伏を申し出るにあたって、黄蓋は周瑜と次のような一策を共謀して演じます。

すなわち、諸将の前で、黄蓋が司令官である周瑜に逆らってみせ、その罰として杖で背中を五十回打たれます。

皮は破れて血はしたたり、瀕死の状態に陥った黄蓋が、その屈辱に耐えられず、曹操に降伏を申し出た、という形にしたため、さしも懐疑心の強い曹操も信じ込んだということです。

事前の偽降伏の密談の際、周瑜は黄蓋に「あなたをいささかひどい目に遭わせないと、曹操が信じてくれないことでしょう」と言いました。

すると黄蓋は、「わしは孫氏(主君・孫権)より厚恩を受けており、たとえ肝脳(かんのう)が地にまみれても、恨んだり後悔したりすることはない」と応えました。周瑜はその心意気に感謝して、「あなたがもしこの「苦肉の計」を引き受けてくだされば、我らの江東にとってこのうえない幸せです」と頼みました。(※6)

『三国志演義』で脚色されたこの一幕から、敵を欺く手段として自分の身を苦しめること、また肉体を苦しめてまで苦境を脱しようとすることを、「苦肉の計(くにくのけい)」というようになりました。

ところで、三国時代の物語は明代に小説『三国志演義』として結実するまでに、各時代、各地ごとに演劇や書籍の形で、様々な変遷を辿りました。

黄蓋を杖で打つ話は元代の『三国志平話』に見え、(※7)また「苦肉の計」という言葉も、すでに元の雑劇(戯曲)「単刀会」に見えます、(※8)『三国志演義』はそれらの虚構(フィクション)を踏襲しつつ、より広くそのエピソードを世間に広めたと言えるでしょう。

なお蛇足(だそく)ですが、三国時代よりやや時代がくだった西晋末、五胡十六国時代に、テイ(「氏」の下に「一」)族出身で、蜀地方に成漢を建国して皇帝となった李雄という人物がいます。

その李雄は、西晋の将軍である羅尚と戦った際、部下の朴泰(ぼくたい)に命じて羅尚に偽りの降伏をさせ、油断させて勝利を得ました。(※9)赤壁の戦いからほぼ百年を経た頃(303年)のことです。

赤壁の戦いに比べると局地的(ローカル)な戦史ですが、この朴泰の偽降伏も後に脚色されて、「苦肉の計」として人々の印象に残っているようです。

黄蓋や朴泰の「苦肉の計」は虚構ではありますが、それは凄絶(せいぜつ)な覚悟のもとで生死をかけた人々に対する、凝縮された虚構であると言えるかも知れません。


(※1)『後漢書』 党錮伝、参照。
(※2)『三国志』 魏書・武帝紀、参照。
(※3)『三国志』 魏書・任峻伝、参照
(※4)『三国志』 呉書・周瑜伝、参照。
(※5)同上、並びに『三国志』 呉書・黄蓋伝、参照。
(※6)『三国志演義』第46回には、他にも数カ所に「苦肉計」の語が見える。
(※7)『三国志平話』巻中、参照。
(※8)雑劇「単刀会」第一折に「虧殺那苦肉計黄蓋添糧草」と見える。
(※9)『華陽国志』大同志、参照。

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