2009.8.14 更新
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故事成語で見る中国史

捲土重来
(けんどちょうらい・けんどじゅうらい)


一度敗れたものが、再び勢いをもりかえしてくること。(広辞苑)

用例: 「今年は思い通りの戦いができなかったが、
     来年こそは捲土重来、優勝を目指して頑張ろう」

(出典)杜牧【題烏江亭】 より

勝敗兵家事不期、包羞忍恥是男児、江東子弟多才俊、巻土重来未可知。

(書き下し)
勝敗は兵家
(へいか)も事(こと)期せず、羞(はじ)を包み恥を忍(しの)ぶは是(こ)れ男児、江東の子弟(してい)才俊(さいしゅん)多し、土を巻き重ねて来たらば未(いま)だ知る可(べ)からず。

(語注)
○烏江亭(うこうてい):秦を滅ぼした楚の項羽が、漢の劉邦に敗れて自刎(じふん)した地。現在の安徽省和県の東北。長江北岸。
○兵家
(へいか) :兵法家、軍事の専門家。
○江東
(こうとう): 長江下流域。項羽が挙兵した根拠地。
○子弟
(してい):若者。
○巻土重来
(けんどちょうらい):日本では「捲土重来」と書かれる。

(現代語訳)
戦いに勝つか負けるかは、兵法家であっても予想することはできない。戦いに負けてしまったときには、恥を堪え忍んでこそ、真の男児というものだ。(項羽は劉邦に敗れ、烏江亭で自害してしまったが、もし根拠地の江東に帰っていたならばどうだっただろうか。)江東の若者には優れた者が多いのだから、土を巻き上げて再起を図ったならば、勢力を盛り返して再び天下を争うことができたかも知れないのに。



(解説)

杜牧(とぼく)は、唐王朝の後期、文学史では晩唐と呼ばれる時代に活動した政治家・詩人です。さしもの栄華を誇った唐王朝も、安史の乱を境に、かつての輝きを失っていた時代です。

杜牧の祖父の杜佑(とゆう)は宰相(さいしょう)にもなった人物で、中国歴代の諸制度について述べた『通典(つてん)』を著した歴史学者でもありました。しかし杜牧が長じる頃には家は困窮し、借金と引っ越しに追われる日々を送っておりました。

杜牧は貧しさのなかで学問を積み、26歳にして科挙の進士科の難関に及第し、役人生活が始まりました。それからの数年間は、政治に参与しつつも、青楼(せいろう)、すなわち色街に入り浸り、風流才子の名を恣(ほしいまま)にしました。
この時期の遊蕩(ゆうとう)が、杜牧を単なる硬骨漢(こうこつかん)ではなく、雅(みやび)な遊び心も具(そな)えた人物へと育てました。

自分の学問を唐王朝の再建に役立てたいと願う杜牧でしたが、中央政界での栄達はままなりませんでした。当時は牛僧孺(ぎゅうそうじゅ)と李徳裕(りとくゆう)が、「牛李の党争」と呼ばれる激しい政権抗争を繰り広げていた時代です。杜牧は牛僧孺の一派とみなされて政争に巻き込まれ、李徳裕から排斥されて、不遇を余儀なくされたようです。(※1)

詩人としての杜牧は、杜甫を「大杜」と呼ぶのに比して、(※2)「小杜(しょうと:年下の杜氏)」と称されました。詩風は多岐にわたり、国を思う剛直な憂国詩人の風格の詩から、若き日の放蕩(ほうとう)生活がかもす洒脱(しゃだつ)で艶麗な詩まで、数多くの作品を残しています。

日本で親しまれている詩句も数多く、たとえば「千里 鶯(うぐいす)(な)いて 緑(みどり)(くれない)に映ず」(「江南春」)や、「霜葉(そうよう)は二月の花よりも紅(くれない)なり」(「山行」)などは、どこかで耳にしたことがあるフレーズではないでしょうか。

国事を憂え、酒と色事の風流を解し、自然の抒情を詠うのに長じた杜牧には、もう一つの特長がありました。それは、『孫子』の注釈書を著すほど、兵法にも深く通じていたということです。

杜牧は、過去の戦役や軍事に対する独自の見解を盛り込みつつ、数多くの詠史詩(えいしし:歴史を題材にする詩)を残しました。それらは時に、唐王朝の行く末を案じる気持ちと重なり、杜牧の骨太な精神の響きを後世に伝えてくれます。

そうした詠史詩の一つに、項羽を詠った「烏江亭(うこうてい)に題す」の詩があります。

詩の舞台は、杜牧の時代から溯(さかのぼ)ることおよそ千年の昔のこと。秦の始皇帝は、天下を統一して戦国時代を終焉させましたが、その秦王朝は、わずか三代で楚(そ)の猛将・項羽(こうう)らに滅ぼされました。

項羽はその傑出した戦闘力で一時は天下を掌中におさめましたが、最終的には垓下(がいか)の戦いで「四面楚歌(しめんそか)」に陥り、漢の劉邦(りゅうほう)に敗れてしまいます。(※3)

垓下の戦いで敗れて敗走する項羽は、長江北岸の烏江(うこう)の渡し場まで落ちのびます。烏江の役人は船を準備して待っており、項羽に本拠地の江東にまで逃げ延び、再起を図るよう勧めました。

しかし項羽は、無様(ぶざま)な姿で故郷に逃げ帰ることを諾(うべな)いません。「自分が率いていた故郷の若者たちを皆死なせてしまったいまとなっては、故郷の人々がたとえ自分を迎えてくれたとしても、あわせる顔がない」といい、自ら首を刎(は)ねて死を選びました。

劉邦は、たびたび項羽に大敗を喫しながらも、しぶとく生き延びて天下を取りました。しかし誇り高き項羽には、みじめな生き恥をさらし雌伏(しふく)するということは耐え難かったのです。

杜牧は項羽が自害した烏江の地に立ち、往時を偲(しの)びます。「烏江亭に題す」の詩に云(い)う、

勝敗は兵家(へいか)も事(こと)期せず、
(はじ)を包み恥を忍(しの)ぶは是(こ)れ男児、
江東の子弟(してい)才俊(さいしゅん)多し、
土を巻き重ねて来たらば未(いま)だ知る可(べ)からず。
     
  勝敗は兵家(へいか)の常とは古来より言われるところで、
  戦いに勝つか負けるかは、兵法家であっても予想することはできない。
  戦いに負けてしまったときには、恥を堪え忍んでこそ、
  真の男児というものだ。
  (項羽は劉邦に敗れ、烏江亭で自害してしまったが、
  もし根拠地の江東に帰っていたならばどうだっただろうか。)
  江東の若者には優れた者が多いのだから、
  土を巻き上げて再起を図ったならば、
  勢力を盛り返して再び天下を争うことができたかも知れないのに。

項羽も死に急がず、生き延びて再起を図ったならば、天下を狙えたかも知れないのものを、という感慨です。この「土を巻き上げて重ねてやって来るならば」という、隆盛なりし頃の項羽の軍勢を彷彿とさせる結句から、一度失敗した者が猛烈な勢いで巻き返しを図ることを、「巻土重来(けんどちょうらい・けんどじゅうらい)」というようになりました。日本では「捲土重来」と書かれます。

項羽の生き様に対しては、古来、批判と同情の議論が頻々(ひんぴん)として絶えることがありませんでした。それはとりもなおさず、後代の人々が自らの人生の起伏を項羽の壮絶な生き様に投影した証です。潔さに対する共感と、敗北したからといって全てを投げ出してはならぬという自戒とが、相(あい)交錯して紡(つむ)ぎ出した影であるといえるかも知れません。

勝ちに乗じて破竹(はちく)の勢いをなすのは容易でも、敗れた時に踏みとどまる勇気と才略を持てる者が稀(まれ)であることを、政界の波に翻弄された杜牧も思い知っていたはずです。苦汁(くじゅう)の味を知る者なればこそ、自戒の念と己を鼓舞する想いも込めて、項羽への同情と、死に急いだことを惜しむ想いを、一篇の詩に紡(つむ)いだのでしょう。


(※1)『新唐書』巻一六六「杜牧伝」、『旧唐書』巻一四七「杜牧伝」等参照。
(※2)杜甫については、当メルマガ第26回「古稀(こき)」参照。
(※3)当メルマガ第22回「四面楚歌(しめんそか)」参照。

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