2009.8.9 更新
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故事成語で見る中国史

白眉
(はくび)

@白いまゆ。
A同類の中で最も傑出している人や物。(広辞苑)

用例:この作品は、今回の展覧会の「白眉」だ。

(出典) 【三国志・蜀書・馬良伝】より
馬良字季常、襄陽宜城人也。兄弟五人、並有才名、郷里為之諺曰、「馬氏五常、白眉最良。」良眉中有白毛、故以称之。

(書き下し)
馬良(ばりょう)(あざな)は季常(きじょう)、襄陽(じょうよう)宜城(ぎじょう)の人なり。兄弟(けいてい)五人、並びに才名有り、郷里之(これ)が諺(ことわざ)を為(な)して曰(いは)く、「馬氏の五常、白眉最も良し」と。良(りょう)眉中に白毛有り、故に以(もっ)て之(これ)を称す。

(語注)
○字(あざな):元服の際に、実名のほかにつける呼び名。通常では相手の名ではなく、字で呼ぶのが礼儀。
○宜城(ぎじょう):地名。現在の湖北省襄陽県の南。
○才名:才能があるという評判、名声。
○五常:馬良の五人兄弟は、いずれも字(あざな)の中に「常」という字が使われていたので、「五常」と呼ばれた。

(現代語訳)
馬良は字(あざな)を季常(きじょう)といい、襄陽郡宜城県の人である。兄弟五人がみな秀才だと評判だったが、郷里の人びとは「馬氏の五人の兄弟の中でも、眉が白い馬良が最も優れている」と諺(ことわざ)にして言った。


(解説)
後漢の末期、儒教の拘束力が弱まり、太平道や五斗米道(ごとべいどう)といった、道教(どうきょう)が民間に浸透しだしました。400年の長きにわたって中国に君臨し、まるで天地そのものであるかのように思われていた「漢」の王朝が崩れる事とも相俟(あいま)って、従来の価値観は崩れてゆきました。そうした不安な情勢の中で、乱れた世を鎮める任に堪えうる人物を求めるかのように、様々な人物について品定めする風潮が各地で高まってゆきました。

後漢末の混乱を三国時代へと導いた曹操や諸葛亮も、当時の人物鑑定家から高い評価を受けていました。そうした大物に比べるといくらか影が薄いのですが、馬良(ばりょう)も人々から秀才だと才名を謳(うた)われた人物の一人でした。馬良は、諸葛亮と親類だったか、もしくは義兄弟の契りを結んでいたのではないかと言われています。(※1)

馬良は、卑賤から身を起こして蜀(しょく)の初代皇帝にまでのし上がった劉備(りゅうび)に仕えました。ある時、呉(ご)の国との友好を深める為に、使者として派遣される事になりました。派遣されるにあたって、馬良が諸葛亮に「私を呉の孫将軍(孫権)に紹介して下さい」と頼んだところ、諸葛亮は「試しに、君が自分で紹介文を書いてみたまえ」と言いました。馬良がすぐさま書いた草稿によると、「弁舌に巧みな華やかさは乏しいですが、物事を最後まで成し遂げるという美徳を具えております」。馬良の自己評価は的確だったようで、呉の孫権は敬意を以て馬良を待遇し、外交は成功したようです。

後に蜀と呉が決裂して、劉備が呉に親征した際、馬良は今度は南方の武陵(ぶりょう)に派遣され、五谿(ごけい)という地の少数民族を懐柔し、蜀軍に協力させるところにまでこぎ着けました。言葉や文化も異なり、漢族の統治に馴染まぬ少数民族のもとに乗り込んで懐柔するというのは、考えただけでも至難の業(わざ)ですが、それを見事に果たせたのは、馬良の温厚な人柄も大きかった事でしょう。

しかし、馬良が異民族の協力を勝ち得たにも関わらず、劉備率いる蜀軍は、夷陵(いりょう)の戦いで、陸遜(りくそん)率いる呉軍に大敗を喫してしまいました。その時、馬良はまだ異民族のもとにいたのですが、五谿の少数民族は敗戦のあおりを食う事を恐れたのでしょう、馬良は哀れにも彼らの手にかかって殺されてしまいました。将来を嘱望(しょくぼう)される、36歳の若さでした。

ところで、古代の中国の人名は、姓と名、それに字(あざな)から成り立っていました。字(あざな)とは実名のほかにつける呼び名の事で、相手を呼ぶ時には、実名ではなく字を呼ぶのが普通でした。馬良の字(あざな)は季常(きじょう)で、彼の五人の兄弟は皆、字(あざな)の中に「常」という字を含んでいました。その五人兄弟は、いずれも秀才の誉(ほま)れが高く、郷里の人々は「馬氏の五常」と称していましたが、その中でも馬良が一番優れている、というのがもっぱらの評判でした。馬良の眉毛の中には、白い毛が混じっていたといい、人々は馬良のその白い眉を指して、「馬氏の五人の兄弟の中で、白眉が最も優れている」と評しました。ここから、後世、同類の中でも最も優れている人や物の事を「白眉」と言うようになりました。

中国史上、偉大な業績を挙げた帝王などは、その異能を示すかのように、なんらかの身体的な特徴を具えていたと伝説される事が多いようです。例えば秦の始皇帝は、鷹や鷲のような猛鳥さながらに胸が突き出ていたと言います。(※2)また漢を興(おこ)した劉邦は、左の股に72個のホクロがあり、(※3)馬良の仕えた劉備は、手をのばすと膝の下まで届き、耳が大きくて自分で見る事ができたとか。(※4)帝王ではありませんが、馬良の白い眉毛も、こうした流れの中にあると言えるでしょう。

ところで、五人兄弟の中で馬良を「長男」とする書物もあれば、「四男」としているものもあるようです。正式な記述が残っていない為にこうした混乱が起こったのですが、兄弟順を解く鍵は、「五常」と呼ばれた「字(あざな)」に求める事が出来そうです。馬良の字(あざな)は「季常」ですが、その「季」とは「末っ子」を意味します。古代中国の字(あざな)では、兄弟に上から順に「伯」「仲」「叔」「季」の文字を用いる事が多かったようです。字(あざな)ではありませんが、清貧(せいひん)の代表者とも言える「伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)」兄弟の名前なども、その例かも知れません。そうして見ると、字に「季」の文字を含む馬良は、四男だというのが妥当な解釈だと思えます。ちなみに馬良には、「泣いて馬謖を斬る」の故事を生んだ馬謖(ばしょく)という弟がいた事が分かっています。その馬謖の字は「幼常」です。四番目の馬良に末っ子の「季」の文字を使ってしまったので、その下の馬謖には「幼」の文字を使ったと考えれば、辻褄(つじつま)が合いそうです。

馬良とほぼ同世代の人物に、魏(ぎ)に仕えながら、後の晋王朝の基礎を築き上げた司馬懿(しばい)がいます。彼の8人兄弟もそろって優秀で、字(あざな)に皆「達」の文字を含んでいたため、世に「八達」と称されました。司馬懿は次男、すなわち「仲」だったので、字は「仲達」となりました。このあたり「馬氏の五常」の「季常」と状況が似ていますね。

その司馬懿にも「狼顧(ろうこ)の相」という身体的な特徴があったといいます。狼は、体の向きはそのままに、常に用心深く後ろを顧みるといいます。司馬懿もまた、全く体の向きを変えずに、首だけを180度回して真後ろを見る事が出来たとか。(※5)異民族に殺されてしまった温厚な馬良と、晋王朝の土台を築いた老獪(ろうかい)な政治家・司馬懿。その身体的特徴が、かたや「白い眉毛」でかたや「狼のような首」だというのも、なんだか象徴的なような気がしますね。


(※1)『三国志・蜀書・馬良伝』裴松之注 参照。
(※2)『史記・秦始皇本紀』 参照。
(※3)『史記・高祖本紀』 『漢書・高帝紀』 参照。
(※4)『三国志・蜀書・先主伝』 参照。
(※5)『晋書・宣帝紀』 参照。

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