2009.8.9 更新
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故事成語で見る中国史

背水の陣
(はいすいのじん)

一歩も退くことのできない絶体絶命の立場。
失敗すれば再起はできないことを覚悟して
全力を尽して事に当ること。「背水の陣を敷く」(広辞苑)

用例:「背水の陣で臨んだこの試合、負けるわけには行かないんだ」

(出典)【史記・淮陰侯列伝】より
信乃使萬人先行、出背水陳。趙軍望見而大笑。

(書き下し)
信乃(すなわ)ち萬人(まんにん)をして先行し、出(い)でて水を背にして陳(じん)せしむ。趙軍望み見て大いに笑う。

(語注)
○信:韓信。漢の劉邦の臣下。同時代の人に韓王信がいるが、別の人物。
○水:川。
○陳:つらねる。(陣を)敷く。
○趙:戦国七雄のうちの一国。現在の山西省北部。

(現代語訳)
そこで韓信は一万人の兵を先行させて、川を背後にして陣を布かせた。
趙軍はこれを見ると、(愚かな布陣だと)大いに笑った。



(解説)
紀元前221年、法家思想を取り入れた秦(しん)が全国制覇を成し遂げました。しかし絶対的な力を持った君主・始皇帝が崩御(ほうぎょ)するや、わずか数年で秦王朝は瓦解(がかい)の兆しを見せ、陳勝(ちんしょう)・呉広(ごこう)の農民叛乱を皮切りに、再び乱世の様相を呈しました。

乱立する群雄の中で最後に覇を競ったのが、楚(そ)の項羽(こうう)と漢の劉邦(りゅうほう)です。劉邦は戦いにかけては百戦百敗というあり様で、鬼神のごとき勇猛を誇る猛将・項羽の敵ではありませんでした。その劉邦が最終的な勝利者たりえたのは、ひとえに彼の人柄を慕って有能な人材が幕下に集まって来たおかげです。

劉邦の幕僚には、後世「三傑(さんけつ)」と称される逸材がいました。兵糧の手配など、地味で困難な実務一切を取り仕切った蕭何(しょうか)、国際情勢を見渡し、常に適切な展望を劉邦に示した張良(ちょうりょう)、そして軍事に関しては天才的とも称された韓信(かんしん)の三人です。

韓信はもともと正業にもつかず、他人の家に居候(いそうろう)しては毛嫌いされ、追い出されてしまうという若者でした。ある時、近隣のならず者が、韓信が好んで刀を帯びているのを見てちょっかいを出してきました。「お前はでかい図体(ずうたい)をしてそんな刀を持ってはいるが、内心は臆病者だ。死を恐れない勇気があるのなら、その剣で俺を刺し殺してみろ。それができないなら、俺の股の下をくぐれ!」

どうなるのかと衆人が見守る中で、韓信は地面にはいつくばると、その男の股の下をくぐりました。(※1)街中の人があざけり笑ったのは言うまでもありませんが、自分の力量に自信を持っている韓信にとっては、こうした侮辱など取るに足らぬものだったのでしょう。

股くぐりの臆病者というレッテルを貼られた韓信は、まず項羽の季父(おじ)・項梁に、そしてその戦死後は項羽に仕えますが、自分の進言が取り入れられないとみると逃亡し、今度は劉邦の陣営に投じました。はじめは劉邦も韓信を評価せず、穀物倉庫の管理人に命じたのですが、蕭何らがその才能を見抜き、「韓信は国に並ぶもののない《国士無双》ですぞ」と強く推薦したため、やがて漢軍の司令官に大抜擢されました。

韓信は、《国士無双》の誉(ほま)れを実証するかのように魏(ぎ)と代(だい)を見事に平定した後、さらに趙(ちょう)へと転戦します。このとき韓信が率いていた漢軍は、数の上では、敵の趙軍に比べるとはるかに劣勢でした。諜報(ちょうほう)によって敵軍の奇襲がないことを察知した韓信は、策を巡らせ、二千騎の別働隊を密かに出動させました。そして諸将に「今日は、趙軍を打ち破った上で会食する事にしよう」と言い、一万の軍を先発させ、川を背にして陣を布(し)かせました。

韓信軍が川を背にした様子を見た趙軍の将士は、「韓信は兵法の初歩すら知らないのか」と大笑いしました。川を背後にして陣を布くと、いざという時に撤退する道がなく、その恐怖心のために軍は恐慌状態に陥ってしまう、というのは、兵法をかじった事がある者なら誰でも知っている事だったのです。(※2)

夜が明ける頃、韓信が軍を進めると、趙軍は陣から撃って出て来ました。激戦する事しばし、韓信が負けたふりをして川岸の陣地に引き返すと、趙軍は、それまで陣地を守っていた兵士までが、勝利を確信して撃って出てきました。川を背にした韓信軍などあっという間に粉砕できるはずだからと、その戦利品にありつこうとしたのです。

ところが実際に陣地に攻め寄せてみると、後ろが川で逃げ場の無い韓信軍の兵士たちは、恐慌に陥るどころか、「もう俺たちには後がないんだ!」と、予想以上の死力を尽くして善戦してみせたのです。趙軍が手こずっている間に、あらかじめ韓信が出動させていた二千騎の別働隊が、空になった趙軍の陣地を奪い取っていました。本陣を奪われて動揺した趙軍は、韓信の本隊と別働隊に挟撃(きょうげき)され、かくて一戦にして趙軍は壊滅してしまったのです。

戦いが終わった後、諸将は韓信に尋(たず)ねました。「兵法には、山を右後ろにし、水辺を左前にせよ、とあります。(※3)それなのに将軍は逆になさって勝ち戦となりましたが、これはどういう戦術なのでしょうか」韓信が答えて言うには、「これも兵法に記されているのだが、諸君が知らないだけの事だ。兵法には、軍を死地に陥れる事によって逆に生還する事ができ、亡地に置く事によって逆に生き抜く事ができる、とある。(※4)我が軍はまだ寄せ集めで訓練がいきとどいておらず、逃げ場があれば、すぐに逃げ出してしまっただろう。だから敵前逃亡できないようにして、自ら進んで戦うようにさせたのだ」

兵法の定石(じょうせき)を見事に応用したその説明を聞いた諸将は、「なるほど、我々の及ぶところではない」と感服したといいます。韓信のこの用兵から、絶体絶命の立場に置かれる事、そしてそこで全力を尽くす事を「背水の陣」と言うようになりました。

実は、韓信の敵である項羽も「背水の陣」に類する戦術をとった事があります。キョ(金へんに「巨」)鹿(きょろく)で秦軍と戦う直前、軍が川を渡った時に、船を沈め、屋舎(おくしゃ)を焼き、兵士には3日分の食料だけしか携えさせませんでした。そうして敢えて自らを窮地に追い込み、秦軍に大勝をおさめたのです。(※5)

英語でも「背水の陣」を表す言い回しに、「burn one's boats」、まさしく「船を焼く」というのがあります。紀元前1世紀、ローマの政治家にして名将であったカエサルが、やはり自軍の船を焼いて自らを窮地に置き、勝利をつかんだ故事に基づくと言います。敵を制する前にまず味方の心を束ねる事ができるかどうか、それが古来、洋の東西を問わず、名将と呼ばれるための第一の試金石であったようです。


(※1)『史記・淮陰侯(わいいんこう)列伝』『漢書・韓彭英盧呉伝』参照。
(※2)『尉繚子(うつりょうし)・天官』に「水を背にして陳(じん)すれば絶地と為(な)り、阪に向かいて陳(じん)すれば廃軍と為(な)る」とあります。
(※3)『孫子・行軍篇』に「平陸には易(い)に處(お)りて而して高きを右背にし、死を前にして生を後ろにす」とあります。
(※4)『孫子・九地篇』に「之(これ)を亡地に投じて、然(しか)る後存し、之(これ)を死地に陥れ、然る後に生く」とあります。
(※5)『史記・項羽本紀』参照。

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