2009.8.9 更新
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故事成語で見る中国史

絵に描いた餅(画餅)
(えにかいたもち・がへい・がべい)


絵にかいた餅、すなわち実際の役に立たないもの。(広辞苑)

用例: 「彼の企画はよさそうに思えるけれど、
     スポンサーを探せなければ、絵に描いた餅だよ」

(出典)【三国志・魏書・廬毓伝】より
選擧莫取有名、名如畫地作餅、不可啖也。

(書き下し)
選挙するに名有るを取ること莫(なか)れ。名は地に画(えが)きて餅(もち)を作るが如(ごと)く、啖(くら)うべからざるなり。

(語注)
○選挙:人材を選び、官吏に推薦すること。

(現代語訳)
人材を選んで官吏に推挙する際には、その人物の名声にたよって採用してはいけない。名声などというものは絵に描いた餅のようなもので、食べることができず、役にたたないものなのだから。



(解説)
有能な人材をどのようにして登用するかは為政者(いせいしゃ)にとって永遠の課題ですが、どのような人物を「有能」であると判断するのか、その指標は時代や国によって大きく異なります。

中国の官吏登用制度における最初の大きなエポック(画期的な事件)は、前漢の武帝が「郷挙里選(きょうきょりせん)」を採用したことです。

「郷挙里選」とは、郡や国といった地方の長官が、有能な人材を中央に推薦する制度です。この制度は後漢へと継承されてゆく過程で、儒教的な思想を色濃く反映するようになり、実務的な能力や独創性に富む人物よりも、徳のある人物を「有能」とする傾向が強まりました。

「郷挙里選」の制度下では、地元での名声が重用であり、それは後漢末に人物評価が盛行したことと表裏の関係をなしています。(※1)

後漢末の戦乱期には、仁徳や名声を重視することが社会的・政治的な常識となっていましたが、そうした風潮のなかで、「有徳」でなくてもよいから、「有能」な人材を登用したいのだ、と打ち上げたのが、後の三国時代の魏(ぎ)の土台を築いた曹操(そうそう)です。

政治家であることはもとより、軍人でもありすぐれた文学者でもあった曹操は、人材を集めることに最も熱心な領袖(りょうしゅう)でした。曹操は人材を募る布令をたびたび出し、「たとえ兄嫁と密通したり、賄賂をとるような人物でも、能力があれば採用する」と言い切っています。(※2)

その曹操の後を継いだ曹丕(そうひ)は、後漢王朝から禅譲(ぜんじょう:皇帝の位を譲り受けること)を受けて魏(ぎ)の初代皇帝となりました。

曹丕はあるとき、人材を推挙させるにあたって、詔勅(しょうちょく)を出して、廬毓(ろいく)という人物に相談しました。

「適切な人材を得られるかどうかは、廬毓の手腕にかかっている。人材を選んで官吏に推挙する際には、その人物の名声にたよって採用してはいけない。名声などというものは絵に描いた餅のようなもので、食べることができず、役にたたないものである。」

この曹丕の詔勅の言葉から、実際の役にたたないもののことを、画餅(がへい・がべい)、すなわち「絵に描いた餅」と言うようになりました。またここから、計画が失敗してむだ骨折りに終わることを「画餅に帰す(がへいにきす)」と言うようになりました。

詔勅に名が挙げられた廬毓(ろいく)は、曹操・曹丕の信任が篤く、吏部尚書(りぶしょうしょ:人事を司る大臣)の位にあった人物です。

廬毓の父の廬植(ろしょく)は後漢末の名士で、硬骨漢(こうこつかん)の学者・軍人として名声が高く、後に三国時代の蜀(しょく)の初代皇帝となった劉備(りゅうび)もその門下生の一人でした。(※3)

廬毓は廬植の子だけあり、何事にも筋を通した正論を述べる人物でした。廬毓は人材登用に関して、次のように述べています。「才能は善をなすためのもので、大きな才能を持つ者は大きな善をなし、小さな才能を持つ者は小さな善をなすことができる。ある者が才能があると称しても、その人物が善をなすことができないならば、それはその才能を役立てることができていないということだ。」(※4)

こうした考え方は、「有能」よりも「有徳」を重んじる儒家思想を奉じた、後漢末の名士たちの系譜上に位置しています。しかし、それぞれの役職に見合う程度において「有徳」かつ「有能」な人材を次々と推挙できたところが、廬毓の優れたところでした。

ところで、曹丕が皇帝の位についた魏では、「九品官人法(きゅうひんかんじんほう)」、あるいは「九品中正(きゅうひんちゅうせい)」と呼ばれる人材登用制度が採用されました。

これは「中正官」という役人が、それぞれの地方ごとの評判を参考にして、各地の人物を九つの品(階級)にランク付けをし、その評価に基づいて中央政府が役職を与えるという制度です。

「九品官人法」は、曹操や曹丕が警戒したはずの、豪族・名士間での名声に基づいた人材登用制度ですが、曹丕が皇帝の位につく際に豪族・名士たちの力に負うところが多かったため、このような制度が採用されたといういきさつがあります。

「九品官人法」は魏の後の晋、さらに南北朝時代にも受け継がれてゆき、その結果、各地の豪族が次第に中央の上級官職を独占するようになりました。そしてやがて、皇帝の家柄よりも、貴族たちの家柄の方が権威をもつような、南朝の貴族社会が形成されてゆくことになります。

「九品官人法」がもたらした貴族社会では、どんなに能力があっても家柄が低ければ、中央政府での昇進は望めません。低い家柄の人々は、当時のそうした情勢を「上品に寒門なく、下品に勢族なし」といって嘆きました。(※5)こうした状況に変化がみられるのは、科挙(かきょ)の制度が普及する唐代を待たねばなりません。

さて、「絵に描いた餅」の比喩は、平易さと諧謔(かいぎゃく)によって後世、多くの人々が用いる言葉となりました。唐の白居易(白楽天)は「絵に描いた餅では飢えを救うことはできない」と詠(うた)っています。(※6)

また、絵にかいた餅で飢えをしのごうとするように、空想に逃避して現実の苦しみを忘れようとする自己満足のことを、「画餅充飢(がべいじゅうき)」とも言うようになりました。(※7)

詩文や通俗小説の分野でも多用されているところをみると、いまも昔も、いかに様々な「画餅」が溢れるなかで人々が暮らしてきたかが分かるようです。


(※1)当メルマガ第15回「登龍門」、参照。
(※2)『三国志・魏書・武帝紀』、参照。
(※3)『三国志・蜀書・先主伝』、参照。
(※4)『三国志・魏書・廬毓伝』、参照。
(※5)『晋書・劉毅伝』、参照。
(※6)白居易「毎見呂南一郎中新文輒竊有所歎惜因成長句以詠所懐詩」に「畫餅尚書不救飢」と見える。
(※7)『景徳傳燈録』に「画餅不可充飢」と見える。

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