2001.12.1 更新
HOMEに戻る
故事成語で見る中国史に戻る
故事成語で見る中国史
蛇足
(だそく)
(出典)【戦国策・斉策】より 楚有祠者。賜其舍人卮酒。舍人相謂曰、数人飲之不足、一人飲之有餘。請畫地為蛇、先成者飲酒。一人蛇先成。引酒且飲。乃左手持卮、右手畫蛇曰、吾能為之足。未成、一人之蛇成。奪其卮曰、蛇固無足。子安能為之足。遂飲其酒。為蛇足者、終亡其酒。 (書き下し) 楚(そ)に祠(まつ)る者有り。其の舍人(しゃじん)に卮酒(ししゅ)を賜(たま)う。舍人相(あい)謂(い)いて曰く、数人之(これ)を飲めば足らず、一人(いちにん)之(これ)を飲めば餘(あま)り有り。請(こ)う、地に畫(えが)きて蛇(へび)を為(な)し、先ず成る者酒を飲まんと。一人の蛇先ず成る。酒を引きて且(まさ)に飲まんとす。乃(すなわ)ち左手(さしゅ)に卮(し)を持ち、右手(ゆうしゅ)に蛇を畫(えが)きて曰く、吾(われ)能(よ)く之(これ)が足を為(な)さんと。未(いま)だ成らざるに、一人の蛇成る。其の卮(し)を奪いて曰く、蛇固(もと)より足無し。子(し)安(いずく)んぞ能(よ)く之(これ)が足を為(な)さんと。遂(つい)に其の酒を飲む。蛇足(だそく)を為(な)す者、終(つい)に其の酒を亡(うしな)えり。 (語注) ○祠:春の祭り。 ○舍人(しゃじん):雑務を司る側近。 ○卮酒(ししゅ):大きな杯(さかずき)に盛った酒。 ○子(し):男子の敬称。あなた。 ○安(いずくんぞ):どうして。 (現代語訳) 楚(そ)の国に春の祭りをする者がいて、近侍(きんじ)の者たちに大きな杯(さかずき)に盛った酒を振る舞った。近侍の者たちは「数人で飲めば足りないし、一人で飲めば余ってしまう。ここはひとつ、地面に蛇の絵を描いて、最初に描き上げた者が酒を飲むということにしよう」と話し合いました。一人の者がまず蛇を描き上げ、酒を引き寄せて飲もうとしながら、左手に杯を持ち、右手で蛇を描き続けて「私は足まで描く事ができるぞ」と言いました。しかし、まだ足を描き終わらぬうちに、他の人が蛇を描き上げ、杯を奪い取り「蛇にはもともと足などないのだ。あなたにどうして足を描く事などできようか」と言って、結局その酒を飲んでしまった。蛇に足を描き足した者は、とうとう酒を失う事になった。 (解説) 諸侯がしのぎを削る戦国時代、様々な需要に応ずるように、諸子百家(しょしひゃっか)と呼ばれる諸学派の隆盛を見ました。その中に「縦横家(しょうおうか)」という一派があります。国際情勢を分析して独自の外交戦略を説き、必要とあれば自ら外交交渉の任にあたる人々の事です。 縦横家がめぐらせた策略は、『戦国策』という書物に生き生きと記されています。後に『史記』を編纂した司馬遷(しばせん)も、『戦国策』を大いに参照しました。『戦国策』は、それぞれの国ごとに項目を立ており、その中の「斉(せい)」の国の策には、次のようなエピソードが残っています。 楚(そ)の将軍・昭陽(しょうよう)は魏(ぎ)を討伐すると、今度は矛先(ほこさき)を転じて斉の国に襲いかかる気配を示しました。斉の閔王(びんおう)は大いに心配して、陳軫(ちんしん)という人物に相談しました。陳軫は、昭陽と同じく楚の人で、諸国を遊説(ゆうぜい)してまわっていた縦横家(しょうおうか)です。陳軫は「ご心配なさいませぬよう、攻撃をやめるよう説得して参りましょう」と言うと、閔王の使者となり、昭陽のもとに説客(ぜいかく)として赴きました。(※1) 魏を討って意気揚がる楚軍に赴いた陳軫は、昭陽にまみえると、まず恭(うやうや)しく戦勝のお祝いを述べました。それから昭陽にこう尋(たず)ねました。「楚の国の法律では、敵軍を打ち破り、敵将を殺した場合、その功績に対してどのような官爵が与えられるのでしょうか?」昭陽が答えて曰く、「官は上柱国(じょうちゅうこく)となり、爵は上執珪(じょうしつけい)となります」陳軫が重ねて「それよりも高貴な位には、どのようなものがありましょうか?」と尋ねると、昭陽は「その上には、ただ令尹(れいいん)があるのみです。」令尹というのは、いまで言えば総理大臣にあたります。 当時、楚の令尹には、すでに他の人物がついていました。その事をふまえて、陳軫は「さらに手柄を立てたからといって、楚王があなたを昇格させて令尹を二人にする、という事はありますまい。ここだけの話ですが、あなたの為にたとえ話をして差し上げたいのですが、よろしいでしょうか」と言い、次のような話をしました。 「楚の国で春の祭りをした者がおりまして、その者は、大きな杯(さかずき)に酒を盛って、近侍(きんじ)の者たちに振る舞いました。近侍の者たちは互いに顔を見合わせると、「数人で飲めば足りないし、一人で飲むには多すぎる。ここはひとつ、地面に蛇の絵を描いて、最初に描き上げた者が酒を飲むというのはどうだろう」と話し合いました。 やがて、一人の者がまず蛇の絵を描き終えました。そして酒を引き寄せて飲もうとしますが、杯を左手に持ったまま誇らしげに「オレは足まで描けるぞ」と言うと、右手で蛇の足を描き足しはじめました。しかし、描き終わる前に他の人が蛇を描き上げ、「蛇にはもともと足などついていないのに、描けるものか!」と言うと、杯を奪い取って酒を飲んでしまいました。」 陳軫は「蛇に足を描き足した者は、結局、酒を飲むことができなかったのです」と言い、こう続けました。「今、昭陽殿は楚の宰相となって魏を攻め、敵軍を打ち破り、敵将を殺し、八つの城を攻略したうえ、さらに斉を攻めようとなさっております。斉の国では、昭陽殿を非常に恐れており、これだけでもあなたの名声は十分に高まりましょう。しかも、もし斉と戦って勝利を収めたとしても、これ以上昇進できる官爵があるわけではありません。戦うたびに勝ったからと言って、ほどよいところでとどまる事を知らない人は、その身は死ぬことになり、爵位は後任の者に帰する事になってしまうのです。それはちょうど、蛇に足を描き足すようなものです」昭陽はそれを聴くと、「なるほど、もっともな事だ」と納得して、軍を解いて楚に引き上げて行きました。陳軫が披露したこの逸話から、しなくてもよい不必要な事をすることを「蛇足(だそく)」と言うようになりました。 「蛇足」はユーモラスでよくできたエピソードではありますが、これだけの説得で勇猛な将軍が戦略を変えたというのは、いくらか不思議に思えるかも知れません。あるいは陳軫が説くまでもなく、「勝ちすぎない方がよい」という処世訓が、社会通念となっていたのかも知れません。 『老子』にも「満足する事を知る者は辱めを受けない。適度なところでとどまる事ができる者は、危険を回避して、命を長らえる事ができる」という言葉があります。(※2)戦争に勝ちすぎれば相手から激しく憎まれ、手柄を立てすぎれば、主君や上司にかえって危惧(きぐ)を抱かせるハメになってしまいます。陳軫や昭陽も、陰謀渦巻く宮廷や軍隊に長年身を置いた強者です。さればこそ、敵国のみならず、自国の味方もまた自分を陥れる機会を狙っているのだという事を、身を以て知っていたに違いありません。 (※1)『戦国策・斉策』によると斉の閔王(びんおう)の時代の事ですが、『史記・楚世家』では楚の懐王の六年の事とされています。『史記』の記述に従うならば、斉は閔王ではなく、威王の三十四年(前323)という事になります。 (※2)『老子・第四十四章』に“知足不辱、知止不殆、可以長久”と見えます。 |