2009.8.9 更新
A Rainy Day トップページに戻る
故事成語で見る中国史に戻る


故事成語で見る中国史

朝令暮改
(ちょうれいぼかい)


朝に政令を下して夕方それを改めかえること。
命令や方針がたえず改められてあてにならないこと。
朝改暮変。(広辞苑)

(出典) 【漢書・食貨志】より
勤苦如此、尚復水旱之災、急政暴賦、賦斂不時、朝令而暮改。

(書き下し)
勤苦此(かく)の如くなるに、尚(な)ほ復(ま)た水旱(すいかん)の災(わざはひ)あり、急政暴賦(ふ)、賦斂(ふれん)時ならず、朝(あした)に令して而(しか)も暮に改む。

(語注)
○勤苦:ほねおり苦しむこと。
○水旱之災:水害と干害(日照り)の災害。
○急政:性急に租税を催促すること。
○暴賦:度を過ごした租税。賦斂:租税を割り当てて取り立てること。
○不時:適当ではない時期。しばしば。臨時。

(現代語訳)
(農民たちの生活は)
このように苦しいものであるうえに、水害や干害にも見舞われ、必要以上の租税を臨時に取り立てられ、朝出された法令が、夜には改められているといった有様です。


(解説)
劉邦の漢が項羽を滅ぼして天下を統一した後、劉邦の妻である呂氏一族が専横を極めましたが、文帝・景帝の代になるとようやく国情が安定し、対外戦争をひかえて国力増強に努めるようになりました。文帝の信任篤く、太子(後の景帝)の家務を司る家令という官にあった人物に晁錯(ちょうそ)がいます。晁錯は「知嚢(ちのう:「知恵袋」の意)」と称されるほどの博識で、文帝・景帝の統治を助けて、積極的に様々な政策を打ち出しました。(※1)

晁錯は商業よりも農業を重視する重農主義者でした。当時、役人や商人の農民に対する搾取(さくしゅ)が激しかったため、多くの農民が生活に困窮し、破産して逃亡する羽目に陥いりました。晁錯は、それを放置しておいては国が傾くと考え、文帝に色々と献策をしました。その上奏文の一部が『漢書・食貨志』に載せられています。ちなみに「食」とは食物、「貨」とは財産の意味で、「食貨志」とは経済の動向についてまとめた伝の事です。

「貧困は作物が足りないところから生じるのであり、作物が足りないのは耕作をしないところから生じるのである。耕作をしなければ、民は土地に定住せず、土地に定住しなければ故郷を離れて家を軽んじる事になり、そうなっては民は鳥や獣と変わらぬものとなってしまい、たとえ城壁を高くして堀を深くし、法律を厳しくして刑罰を重くしたとしても、民の流民化を防ぐ事はできません。(中略)農民は春夏秋冬、一年中休みなく働かなければならぬうえに、弔問や病気の見舞いでの行き来などもあり、このように骨を折って苦しんでいるうえに、日照りや水害といった災害に見舞われる事もあり、臨時の租税も性急に催促され、朝、法令が出たかと思えば、夕方にはそれをすぐ改める、というあり様です。」(※2)

上奏文はさらに続き、役人や商人が思いのままに搾取するのを制限し、農民が零落するのを防ぐべきだとの意見が述べられています。朝、出した法令を、夕方にはすぐ改める、すなわち法令などがころころと変わってあてにならない、という「朝令暮改」の語はこうして生まれました。

晁錯は、皇帝の権力を絶対的なものにするために、重農主義の他にも数々の政策を打ち出しました。その中でも社会に対する影響が大きく、後に大事件を巻き起こす事になったのが、景帝の時代に建議して採用された、諸侯の封土を削るというものでした。晁錯が辣腕(らつわん)ぶりを発揮して、余りに次々と法令を出して性急に中央集権化を推進しようとしたため、諸侯からは大きな怨みを買うことになりました。それを聞き知った晁錯の父が心配して「次々と法令を発して、諸侯の怨みを買うような事をしているようだが」と尋ねると、晁錯は答えて曰く「もとよりの事です。こうしなければ、天子の位は尊いものとはならず、宗廟(漢王朝)も安泰だとは言えないのです」それを聞いた晁錯の父は「それでは劉氏(漢王朝)は安泰だが、我が晁氏は危険にさらされるではないか。わしはこの身に禍が及ぶのに堪えられん」と言い、毒を仰いで自殺してしまいました。

領土や権限を削られる諸侯の側も黙ってはおりません。果たせるかな、晁錯の父が自殺した十余日後、「晁錯を誅殺せよ」という合い言葉のもと、呉や楚など七つの国が連合して叛旗を翻しました。世に言う「呉楚七国の乱」です。晁錯とは日頃から仲の悪かった袁オウ(「央」の下に「皿」)(※3)は、この乱に乗じて、景帝に晁錯の讒言(ざんげん)を申し述べました。「この度の諸侯が叛乱を起こした原因は晁錯なのですから、彼を処罰すれば自ずと叛乱は終息いたしましょう」これが景帝の容れるところとなり、晁錯は朝廷に出仕する衣服を着たまま刑場にしょっぴかれて行き、斬首されてしまいました。(※4)農民に対しては恣意(しい)的に法令を出すべきではないと主張した晁錯が、諸侯に対しては次々と手厳しい法令を発して、そのために命を落とす羽目になったのは、信念を貫いた為とはいえ、些か皮肉な顛末(てんまつ)だと言えるかも知れません。


(※1)『史記・晁錯列伝』、『漢書・晁錯伝』参照。
(※2)『漢書・食貨志』は「朝令而暮改」に作りますが、清・王念孫『読書雑誌』によると、「『漢紀』によれば、「改」は本来「得」であり、「朝令暮得」、すなわち「朝に租税の法令を出して、夕方には徴収する(得)」の意であった」としています。本来の形がいずれであったかについては、更なる考察を待たねばなりませんが、唐・元じん(のぎへんに「眞」)『授馬総検校刑部尚書天平軍節度使制』や『資治通鑑』唐穆宗長慶二年の項にも「朝令夕改」の語が見える事から、「得」よりは「改」で知られていたのであろう事がうかがわれます。

(※3)袁オウの姓の表記について、『史記』には袁と記されていますが、『漢書』は爰(エン)に作っています。
(※4)晁錯が朝廷の衣服のまま長安の東市で処刑された故事も、「朝衣東市」として「大臣が誅殺される」という意味の成語になっています。

当HPの文章・写真を転載する際は、
管理人・バルカまでご一報下さい。

A Rainy Day
Since 2000.12

トップページに戻る
故事成語で見る中国史に戻る