2009.8.9 更新
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故事成語で見る中国史

竹馬の友
(ちくばのとも)

ともに竹馬に乗って遊んだ幼い時の友。
おさなともだち。(広辞苑)

(出典) 【世説新語・品藻】より
殷侯既廃。桓公語諸人曰、少時與淵源共騎竹馬、我棄去、已輒取之。故當出我下。

(書き下し)
殷侯既に廃せらる。桓公諸人に語りて曰く、少(わか)き時、淵源と與(とも)に竹馬に騎(の)るに、我棄て去れば、已(すで)に輒(すなは)ち之(これ)を取る。故(もと)より當(まさ)に我が下に出(い)づべし、と。

(語注)
○殷侯:殷浩。
○桓公:桓温。
○淵源:殷浩の字(あざな)

(現代語訳)
殷浩が位を平民に落とされてから、桓温が人々に言った。「幼いとき、殷浩と竹馬に乗ったものだが、私が竹馬を棄てると、殷浩がそれを拾って乗ったものだ。もとから彼は、私の下風に立つべき人物なのだよ」


(解説)
後漢末の黄巾の乱からおよそ100年、晋の司馬炎によって三国時代に終止符が打たれ、ようやく太平の時代が訪れたかに見えました。しかし晋王朝は、王族の内乱や異民族の侵入により滅ぼされてしまいます。難を逃れた皇族の司馬睿(しばえい)が南方で即位して「東晋」を興しましたが、北方は異民族の統治下にありました。そんな時代、厳しい現実とは裏腹に、知識人の間では「清談」「玄談」と呼ばれる奥深い哲学議論が大流行していました。

「清談」「玄談」の流行の中で高い名声を得た人物は枚挙にいとまがありませんが、殷浩(いんこう)もその中の一人でした。老子や易、さらには仏教の思想にも深く通じ、その名は全国に知れ渡り、人々は彼の事を管仲や諸葛亮になぞらえて期待を寄せるほどでした。(※1)

やがて殷浩は出仕して、異民族を討伐すべく北伐の司令官となりましたが、残念な事に遠征は失敗に終わりました。その結果、殷浩は官位を剥奪され、その2年後に没してしまうのですが、殷浩の失脚に一役買った人物に、桓温(かんおん)という重鎮がいました。桓温は、後に北伐して洛陽を奪回し、朝政を壟断(ろうだん)して、最後には皇帝の位を簒奪(さんだつ)しようとまでした人物です。

殷浩と桓温は、若くから世に名声を謳(うた)われており、互いに競争心を抱いてもいました。ある時、桓温が殷浩に「君は私と比べてどうだろうね」と尋ねたところ、殷浩は「私は私自身との付き合いが長いので、やはりどちらかと言えば私が勝っているという事にしておこうかね」と答えたと言います。(※2)こんな具合に二人はよきライバルであった筈なのですが、実は、桓温の方では、日頃から殷浩の事をあまり快く思っていませんでした。その上、ようやく勢力が大きくなってきた自分への対抗馬として殷浩が抜擢されたため、殷浩の北伐失敗に乗じて、ここぞとばかりに念入りな上奏文をしたため、殷浩の罪状を帝に訴えたのです。

殷浩が平民に落とされた後に、桓温は人々にこう言ったといいます。「若い頃は、殷浩と共に竹馬に乗ったものだが、私が竹馬を棄てると、殷浩がそれに乗ったものだ。そんなわけで、彼が私の下風に立つのは当然なのだよ」。「竹馬の友」と言えば、日本でも中国でも「幼なじみ」の意味で使われていますが、こんな悪意を含んだ言葉が出典であるのは、なんだか後味が悪いような気がしますね。

ちなみに、竹馬という遊具がいつからあったのか、厳密に確定するのは難しいのですが、少なくとも後漢の時代には子供達の遊具として普及していたようです。そして、『後漢書・郭きゅう(にんべんに「及」)伝』に、「(はじめて任地に赴いた時に) 数百人の子供が各々竹馬に乗って、道ごとに礼拝した」という記述が見える事から、竹馬は子供たちの遊具であると同時に、地方官に関する儀式にも用いられた事がうかがえます。(※3)


(※1)『世説新語・賞譽』参照。
(※2)『世説新語・品藻』では、「我與我周旋久
(我は我と周旋すること久し)」となっていますが、後の『晋書・殷浩伝』では「我與君周旋久(我は君と周旋すること久し)」と改められています。『晋書』では「私は君とのつきあいが長い」の意になり、意味を通そうとして、かえって意味がよく分からず、もとの言葉の味わいを失わせてしまっていると言えるでしょう。
(※3)『後漢書』のこの記述は『東観漢記』によるものですが、唐・劉知幾はその著『史通』で、いくつかの理由を挙げて、実際には子供たちが竹馬で群れていたはずがない、と批判を述べています。

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