2001.11.25 更新
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故事成語で見る中国史
傍若無人
(ぼうじゃくぶじん)
(出典)【史記・刺客列伝】より 荊軻嗜酒、日與狗屠及高漸離飲於燕市。酒甜以往、高漸離撃筑、荊軻和而歌於市中、相樂也。已而相泣、旁若無人者。 (書き下し) 荊軻(けいか)酒を嗜(たしな)み、日々狗屠(くと)及び高漸離(こうぜんり)と燕市(えんし)に飲む。酒甜(たけなわ)にして以往(いおう)、高漸離筑(ちく)を撃ち、荊軻和して市中に歌い、相(あい)樂しむ也。已(すで)にして相泣き、旁(かたわら)に人無き者の若(ごと)し。 (語注) ○狗屠:食用の為に、犬を殺して売る者。 ○高漸離:荊軻の知己(ちき)。筑(ちく)の名手。 ○燕市:戦国時代、燕の国の都城。 ○以往:それよりのち。 ○筑:弦楽器の一種。左手で弦を押さえ、右手の竹のばちで弾いて演奏する。 (現代語訳) 荊軻は酒を飲むのを好み、毎日のように犬殺しや高漸離(こうぜんり)と街なかで飲んだ。酒がたけなわになると、高漸離は筑(ちく)を奏で、荊軻はそれに唱和して共に楽しんだ。やがて(感極まって)互いに泣きあい、その有様はまるで周囲には人などいないかのようであった。 (解説) 戦国時代の末期、秦の武力による圧迫に耐えかねた諸国は、生き残りを図るために様々な方策を練りました。その中には、燕(えん)の太子・丹(たん)のように、刺客(しかく)を用いて、秦王(後の始皇帝)個人を暗殺する事によって秦の勢いを止めようとする者もいました。 秦王暗殺計画は、もちろん燕の国家としての方策ではありましたが、同時に太子・丹の個人的な怨恨(えんこん)という色彩も強かったようです。当時は国家間で王族を人質に交わす事が頻繁に行われ、燕の太子・丹(たん)も趙、そして秦で人質生活を送った人物です。丹は趙で始皇帝と知り合い、後にその始皇帝の秦でも人質として暮らすのですが、始皇帝の待遇がよくない事を恨み、秦を脱出すると、始皇帝暗殺を企てました。 まず太子・丹は、田光(でんこう)という在野の名士に会い、秦と事をかまえるので力になってはくれないか、と打診しました。歴史に残る血なまぐさい暗殺計画の幕開けです。田光は年老いた事を理由にして太子・丹の申し出を断り、そのかわりに、交遊のある荊軻(けいか)という人物を推薦しました。太子・丹は、田光の去り際に「この事は国家の大事なので、なにとぞ他言なされぬよう」と念を押しました。 田光が見込んで推薦した荊軻(けいか)は、衛から燕に流れて来た人物で、読書や撃剣(げきけん)を好んだといいます。始皇帝暗殺に荷担したほどですから、相当に肝(きも)のすわった人物だったはずですが、剣や双六(すごろく)の事で口論になった折りなどは、黙って逃げ出して、その街から姿を消したといいます。天才的な戦上手(いくさじょうず)でありながら、甘んじて「股くぐり」の汚名を受けた韓信(かんしん)の姿と重なるところがあるようですね。(※1) また、酒を好んだというのも中国の豪傑のご多分に漏れぬところです。友人の高漸離(こうぜんり)が筑(ちく)という楽器を演奏し、荊軻がその曲に合わせて歌をうたって楽しみ、やがて感極まると互いに泣きあったといいます。その振る舞いは「旁(かたわら)に人無きが若(ごと)し」(周囲に人がいないかのようだ)、すなわち「旁若無人(ぼうじゃくぶじん)」であったといいます。(※2) さて、荊軻のもとを訪れた田光は事情を話し、太子・丹の宮殿に赴くように言いました。そして「長者たる者は、事を行うにあたって人に疑念を抱かせてはならない、というのに、わしは機密を漏らすのではないかと、太子に疑いを抱かせてしまった。おぬしは太子のもとに行ったら、田光は自殺したので、他言の恐れはなくなりました、と伝えてくれ」と言うと、自ら首を刎ねて命を絶ってしまいました。 その荊軻、秦王(始皇帝)暗殺は容易に達成できる仕事ではないと、百も承知していました。秦王のそばに近づくには、まず信頼を得て油断させねばなりません。その為に荊軻が太子・丹に所望したのは、樊於期(はんおき)という人物の首でした。樊於期はもともと秦の将軍でしたが、罪を得て太子・丹のもとに亡命し、一族は秦王に皆殺しにされてしまったのです。その首を差し出せば秦王も信頼するだろう、と荊軻は進言したのですが、太子・丹は「樊将軍は私を頼ってきてくれたのだ。なんとか他の方法はないものだろうか」と殺すのに忍びない様子です。 太子・丹が踏み切れないと判断した荊軻は、自ら樊於期のもとを訪ね、胸中の策を披瀝(ひれき)しました。「あなたの御首を頂き、それを献ずると言えば、秦王は喜んで私に謁見(えっけん)を許す事でしょう。その席上で、秦王を暗殺するのです」樊於期は「日夜、歯がみして心を悩ましていましたが、ついに今、よい教えをきく事ができ申した!」と言うと、自ら首を刎ねました。こうして、秦王暗殺の為に、田光についで二人目の血が流れました。 やがて荊軻が秦王暗殺に旅立つ際、太子や事情を知っている者たちは白い喪服を来て、易水(えきすい)という川のほとりまで荊軻を見送りました。暗殺に成功しても失敗しても、生きて再び戻れる可能性はありません。易水のほとりに立った荊軻は、友人の高漸離の奏でる筑に合わせて、歌をうたいました。 風蕭々(しょうしょう)として易水(えきすい)寒し 壮士、ひとたび去って、復(ま)た還(かえ)らず 見送りの一行がすすり泣くのを背に、荊軻は後ろを振り返る事なく、旅立ちました。 荊軻は秦に入ると念入りに工作を進め、樊於期の首の効果もあって、ついに王宮にて、秦王への謁見が実現します。恭(うやうや)しく燕の都市の地図が献上され、秦王がその巻物を開いてゆきます。その巻物が開ききった時、最後に匕首(あいくち)が現れました。 荊軻は飛びかかり、左手で秦王の袖を掴み、右手の匕首で刺そうとしましたが、秦王には届かず、掴んでいた袖がちぎれてしまいました。宮殿の柱をめぐって逃げ回る秦王と、それを追い回す荊軻。側近たちが驚きのあまり為(な)す術(すべ)を知らない中、侍医が投げつけた薬の袋が荊軻にあたり、秦王の振るった剣が荊軻の左の股を斬り裂きました。 荊軻は倒れながらも匕首を秦王に投げつけますが、秦王ではなく、柱にあたってしまいます。秦王は自由に身動きのとれぬ荊軻に斬りつけ、八箇所に傷を負わせました。荊軻は暗殺が失敗した事を覚(さと)ると、柱にもたれかかって笑いました。人殺しに失敗し、自らの死を目前にしてなお笑う。想像してみると、なかなか凄惨(せいさん)な風景です。まさしく傍若無人(ぼうじゃくぶじん)であると言えるかも知れません。荊軻はその場で斬殺されてしまいました。(※3) 荊軻の死後、友人の高漸離は、名も姿も変えて潜伏していましたが、一人として聴いて涙を流さぬものはないという筑(ちく)の名声が広まり、やがて始皇帝に召し出されました。そこで荊軻の友人の高漸離である事が発覚してしまいます。始皇帝はその筑の腕前を惜しみ、命は奪わずに目をつぶして、自分の身辺に置いて筑の演奏を続けさせました。始皇帝の警戒心がゆるんできたある日、高漸離は筑の中に鉛を隠しておき、それを振り上げて始皇帝に襲いかかりましたがあたらず、逆に誅殺されてしまいました。 荊軻と、その周囲で散った知己(ちき)たち。彼らを支えたのは、政治的な理念や名声などではなく、まさしく「知己」であったというその一点に尽きるようです。言うまでもなく、「知己」とは「己(おのれ)を知る」、つまり自分の真価を知ってくれる相手という事です。 「士は己(おのれ)を知る者のために死す」という言葉の通り、(※4)自分が存在する意義を見いだしてくれた相手と出会えた時、彼らは命よりも重んずるべきものに出会ったと言えるでしょう。暗殺が正義であるか、それとも卑しむべき行為であるか。その命題すら、「知己」を得た彼らにとっては、もはや重要な事柄ではなかった事でしょう。 (※1)『史記・淮陰侯(わいいんこう)列伝』『漢書・韓彭英盧呉伝』参照。 (※2)「旁若無人」は「傍若無人」とも書きます。 (※3)『史記・刺客列伝』『戦国策・燕策』参照。 (※4)『史記・刺客列伝』聶政(じょうせい)の項、参照。 |