2009.9.14 更新
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三国志紀行



曹操じきじきの教弩台
(明教寺:安徽省合肥、2001年2月)





明教寺・教弩台


三国時代、魏と呉がたびたび争った地、合肥(ごうひ・がっぴ)。現在は安徽省の省都として賑わう市街地の東部に、かつて曹操が築いたという教弩台(きょうどだい)が残っている。

(ど・いしゆみ)とは、機械仕掛けで射る強い弓のことで、呉の孫権との衝突に曹操が備えさせた跡であるという。

教弩台のある明教寺(みょうきょうじ)は、もとは南朝・梁の武帝の時代(6世紀初頭)の創建であるという。その後の沿革について、北宋の地誌『太平寰宇記(たいへいかんうき)』には記述が見えないが、やや時代が下った南宋の祝穆(しゅくぼく)の手になる『方輿勝覧(ほうよしょうらん)』巻四八 淮西路(わいせいろ) 廬州(ろしゅう) に、次のように見える。

教弩台は、懐徳坊の明教寺に在る。『旧経』には、「昔、魏の武帝(曹操)が台を築かせて、強弩(きょうど)を教えて五百人の部隊を配置し、孫権の水軍の来襲を防がせた。唐の大暦年間(766〜779)に高さ一丈八尺の鉄の仏像が見つかり、刺史(しし)の裴緝(はいしゅう)が上奏して、明教寺とした」と云う。

この『旧経』がいかなる書物であったのかは不明だが、南宋には三国時代の古跡として知られていたことが分かる。

左写真、寺の土台となっている壁が教弩台である。4〜5mもある城壁の上に立っている寺院というのはいかにも珍しく、往時、戦乱に備えた施設であったことが窺われる。


明教寺は、逍遙津(しょうようしん)公園(→「三国志紀行・衆寡適した!?逍遙津」)のすぐ南に位置する。しかし逍遙津公園や、包公祠(→「中国見聞録・合肥」)に比べると、明教寺は、通りを歩いていたら、なんだかフツーにそこにあった、という佇(たたず)まいである。行き交(か)う人が見向きもせず(笑)(右写真)、曹操や梁の武帝になど誰も想いを馳せていなさそうな、そんな生活の中に紛れ込んだ一画に明教寺はある。



明教寺・教弩台



明教寺の屋上井


なんだか呆然としているような後ろ姿の子は、何を見ているのだろう(笑) 明教寺の境内の亭(あずまや)には、「屋上井」と呼ばれる古井戸が残されている。井戸口には、「晋の泰始四年(268)に殿中司馬の夏侯勝が造った」と刻まれており、明教寺の創建よりも古くからの井戸であることになる。

写真はすべて、南京のデパートで購入したカメラで撮影したものなのだが、撮影した時点で、勝手にセピア色の効果(エフェクト)を施してくれるという逸品だ(笑) それが本当に夕焼けの景色であったのか、それとも旅行者の歴史への憧憬(どうけい)であったのか。明教寺を訪れてから数年を経たいまとなっては、すでに判然としないが、三国時代からの長い年月を経てきた教弩台は、今日も街の人々の往来を見つめるように夕焼けに染まっていることだろう。


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