2003.4.11 更新

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三国志 雑学Q&AA



Q.016 官渡の戦いの兵力は? Q.017 孟獲は七縦七禽に保釈金を払った!? Q.018 円周率を算出したのは誰?




Q.016 官渡の戦いの兵力は?

A.016 袁紹と曹操が覇権をかけて争った官渡の戦いは、三国志の前半のヤマ場の一つですね。しかし、その際に動員された兵数に関しては諸説あり、はっきりしたところは分かりません。三国時代に限らず、様々な合戦に動員された兵力について、その正確な数はほとんど分からないのが実状です。正史に兵力が記述されているものもありますが、その数字も実際より多すぎたり少なすぎたり、様々な誇張がほどこされている事が多いようです。

正史『三国志』の「武帝紀(曹操)」や「袁紹伝」等によると、官渡の戦いの際、袁紹軍は歩兵10万余、騎兵1万余を動員したと見えます。対する曹操軍は1万にも満たない寡兵(かへい)であったと記されています。しかしこれは曹操軍を少なく誇張しすぎているようで、注をつけた裴松之も「曹操軍がこんなに少なかったはずはない」と検証しています。当時、袁紹と曹操が支配していた地域の人口で比較してみても、これほどの差はつかないはずです。

もっとも、曹操が支配していた地域は、黄巾の乱以来の長引く戦乱で荒廃していました。また、袁紹は北方の公孫サンを倒し、異民族との関係も良好で後顧の憂いがありませんでしたが、曹操はと言えば、後方には袁紹の生家でもある汝南の抵抗や、劉備のゲリラ戦、また荊州の劉表などもおり、本拠地の許都付近ですら支配力が完全ではなかったほどなので、対袁紹戦だけに兵力を集中する事ができないという不利を抱えていました。

曹操軍の兵力に関しては、陳寿の記述通りに1万余とする説のほかに、1〜2万、4万、3〜5万、7〜8万など、諸説紛々としています。ちなみに中国の中学校の歴史の教科書では、袁紹軍10万人、曹操軍3〜4万人と記されているようです。中国の公式見解として、とりあえずこのあたりの兵力に落ち着いておくのがよいかも知れませんね。(当サイトにて、2002.9)
もう少し詳しい話はこちらへ→「随想三国志<官渡の戦いの兵力について>



Q.017 孟獲は七縦七禽に保釈金を払った!?

A.017 七縦七禽(しちしょうしちきん)、諸葛亮の南征の際、孟獲が七たび捕らえられて七たび放たれたというこのエピソードは、正史『三国志』の裴松之注にが引く『漢晋春秋』に見え、「演義」がそれを敷衍(ふえん)して物語に取り込んだことはよく知られています。元代には、「演義」の前身とも言える『三国志平話』がありますが、そこでもすでに七縦七禽のエピソードは採用されています。しかし「平話」での脚色は、後の「演義」とは少々異なります。

どう異なるかというと、孟獲は諸葛亮に捕らえられるたびに、保釈金として大金を支払って解放してもらった、という具合に描かれています。そして諸葛亮曰く、

「吾〓(qu4、見るの意)此賊如同草芥、兼自西川国窮。」
(わしが見るに、この南蛮の賊は草や芥(あくた)のようなものだ。その上わが西川(せいせん、蜀)の国は財政が窮乏しておる)

「平話」の諸葛亮は、確信犯的に孟獲を捕らえては解き放ち、大金を巻き上げているのです。コワイですね(笑)

もちろん脚色としては些(いささ)か行き過ぎだとは思いますが、あながち全くの捏造(ねつぞう)とは言い切れぬ側面もあります。というのも、正史『三国志』には、南征の結果、「軍資金を供出させることができ、国は豊かになった」(諸葛亮伝)、「耕牛や軍馬、金、銀、犀の革(かわ)などを供出させ軍資にあてたおかげで、その当時は軍費に窮乏することがなかった」(李恢伝)等と見えるからで、南征は後顧の憂いを無くすと同時に、財産・資源・人口等を確保するという成果をもあげました。そうしてみると、孟獲が大金を払ったというのも、蜀への賦税の隠喩(いんゆ)だと言えないこともありませんね。

ちなみに『華陽国志』の「南中志」にも七縦七禽のエピソードが見えます。そしてさらに、蜀に帰順した孟獲が御史中丞(ぎょしちゅうじょう)に任ぜられた旨が記されています。

余談ですが、御史中丞とは、おもに宮中での弾劾等を司(つかさど)る役職で、品秩は四品です。この職にあった人物をざっと見てみますと、董卓政権下の許靖(きょせい)、劉備のもとを去り曹操に仕えた徐庶、劉璋の子で呉に仕えた劉闡(りゅうせん)、そして蜀の向朗(しょうろう)の子の向条などがいます。この列に孟獲が並ぶのは、イメージとしては不思議な感じがしますね。まさかお金で官位を買ったわけではないと思いますが(笑)、南蛮からの大抜擢ではありました。(2003.3)
『華陽国志』について→「三国志文献案内<地方志>



Q.018 円周率を算出したのは誰? 
現在は「π(パイ)=3.14」でお馴染みの円周率について、中国でも古代から探求が続けられていました。三国時代、もっとも正確な円周率の数値を算出したのは、魏の劉徽(りゅうき)という人物です。

劉徽は、陳寿『三国志』にはその名が見えませんが、『九章算術』という、秦漢以来継承されて来た算術の書に注を付して(263年)、名を残した人物です。劉徽は「割円術」という方法を用いて、円周率について、3.14と64/625〜3.14と169/625の間と算出し、実際の計算にあたっては、現在と同じく近似値として3.14を用いました。この数字は、劉徽の名にちなんで「徽率(きりつ)」と呼ばれます。

同じく三国時代、呉の王蕃は3.1555と算出していましたが、「徽率」の正確さにはかないませんでした。ちなみに「徽率」を上回る正確な数値は、南朝・宋〜斉の時代の祖沖之(そちゅうし)によって算出された3.1415926〜3.1415927です。(『隋書』巻十六「律暦志・上」) ヨーロッパでこの数値が算出されるのは、実に1593年、フランスの数学者で法律家でもあるヴィエート(ヴィエタ)の出現を待たねばなりませんでした。(2003.4)

『九章算術』について三国志文献案内<科学>






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