2002.7.30 更新
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三国志 雑学Q&A@
| Q.001 | 射声校尉って何? | Q.002 | 馬騰と韓遂、どっちが偉い? | Q.003 | 頭痛が治るほどの名文とは? |
| Q.004 | 後継ぎは絶対に長男であるべきか? | Q.005 | 李儒は実在の人物? | Q.006 | 張飛の字は益徳か翼徳か? |
| Q.007 | 周倉って何者? | Q.008 | 関羽は偽名? | Q.009 | 中国の美女とは? |
| Q.010 | 孫策は皇帝になれた? | Q.011 | 役人に休暇はあった? | Q.012 | 三国時代の「仁侠」とは? |
| Q.013 | 中護軍って何? | Q.014 | 張飛ってどんな顔? | Q.015 | 三国時代の囲碁とは? |
| Q.001 | 射声校尉って何? |
| A.001 | 前漢の武帝は、都・長安の防衛を想定して八つの「校」という部隊を新設しました。「射声」というのは、その八校の中の一つです。そして、それぞれの部隊長を「校尉」と呼びました。「射声」という言葉の由来について、『漢書・百官公卿表上』の注に次のように記されています。 「冥冥たる中に声を聞けば則(すなは)ち之(これ)に中(あ)つ、因(よ)りて以て名づくるなり。」 つまり、「暗闇の中でも、声を聞いただけでその声の主を射抜けるほどの弓の名手」の部隊という事で、「射声校尉」はその隊長です。赤外線スコープをつけたゴルゴ13部隊の隊長といったところのようです。恐ろしいですね。ちなみに「射声」はそのまま読めば「シャセイ」ですが、慣用的に「セキセイ」とも読まれます。(当サイトにて、2002.1) |
| Q.002 | 馬騰と韓遂、どっちが偉い? |
| A.002 | 董卓は西涼を基盤としつつ、関東の諸侯に睨みをきかせましたが、その頃、西涼では叛乱が繰り返されていました。韓遂や馬騰もその首領たちの一人で、中央政府は彼らの懐柔に苦慮していたようです。韓遂と馬騰は、ある時は盟友となって中央に背き、またある時は互いに敵対するといった叛服常なき間柄でした。 馬騰に関してはまとまった記述がありませんが、『三国志・蜀書・馬超伝』の他にもちらほらと散見するようです。『後漢書・孝霊帝紀』中平四年(187年)の条に名前が見えるのを皮切りに、『後漢書・董卓伝』などにも見えます。馬騰は羌(きょう)族の女性を母にもち、幼い頃は貧乏暮らしで、韓遂らとともに叛乱と服従を繰り返して、たたき上げて次第にのし上がっていった人物です。 董卓が全盛期の頃は、韓遂・馬騰は董卓とは主従関係にはありませんでしたが、反董卓連合軍が結成されると、董卓は自勢力の後方に位置する韓遂と馬騰を味方に引き入れました。これが190年前後の事です。董卓が殺されると、李カク・郭シらが韓遂・馬騰を自陣営に引き入れました。その際、韓遂には鎮西将軍、馬騰には征西将軍の官位が与えられました。どちらも二品に該当する高官ですが、征西将軍の方が上位であったので、この192年の時点では、馬騰の方が若干高い評価を受けていたようです。(がんもさんのサイトにて、2002.1) |
| Q.003 | 頭痛が治るほどの名文とは? |
| A.003 | 檄文(げきぶん)の名手・陳琳(ちんりん)は、はじめ何進に仕え、後に袁紹の幕僚となりました。袁紹が諸侯にとばした「打倒曹操」の檄文も、彼の手になるものです。その檄文は、曹操本人にとどまらず、その父祖までののしる手厳しい内容で、さすがの曹操も閉口しました。しかし曹操はその文才を愛し、後に自らの幕僚に加えて、自分の為に檄文や政治に関する文書を書かせました。 ある時、曹操は持病の頭痛に悩まされていましたが、横になりながら陳琳の書いた文書の草稿を読むと、その見事な出来映えに、頭痛が吹き飛んでしまいました。「わしの病気を治してしまったぞ!」陳琳は曹操にいたく気に入られ、度々厚い恩賞を受けました(『三国志・魏書・王粲伝』注引『典論』)。 ちなみに陳琳は「建安七子」の一人として文学史にも名を残しており、後世の『文選(もんぜん)』というアンソロジーは、彼の文章を四篇載せています。しかし、いずれも上奏文や檄文の類で、詩や賦(ふ)などのいわゆる文学的な作品は残っていないようです。自らも文学者として名高い曹操のお眼鏡にかなったほどの文章がどのようなものであったのか、見てみたいものですね。(当サイトにて、2002.1) |
| Q.004 | 後継ぎは絶対に長男であるべきか? |
| A.004 | 伝統的な儒教の観念から言えば、能力の如何を問わず、嫡男が家を継ぐべきです。三国時代も当然そうした考えが主流を占めていました。しかし治世ならいざしらず、戦乱の時代ともなれば、優秀な指導者を立てねば一族郎党に明るい未来はありません。そこで様々な家で相続をめぐるお家騒動が起こりました。めぼしいところでは、袁紹の子の袁譚と袁尚、劉表の子の劉gと劉j、劉備の子の劉封と劉禅など。後継者選びが問題になったという事は、いざとなれば長男でなくても後を継がせ得る可能性があったという事です。 ところで袁紹の長男・袁譚は粗暴で、家中を統率する力量に疑問をもたれておりました。家臣の中には弟の袁尚を支持する者も多く、兄弟で凄絶(せいぜつ)な争いを繰り広げたあげく、結果的には漁夫の利を得た形の曹操にどちらもやられてしまいました。 長男・袁譚に対する評価は、人格的にも能力的にも厳しいものがあるようですが、『三国志・魏書・袁紹伝』が注に引く『典略』には、こんな話が見えます。袁尚攻撃を非難する審配からの手紙を読んだ際「譚得書悵然、登城而泣(袁譚は手紙を読むとかなしげになり、城壁に登って涙を流した)」といいます。袁譚が必ずしも、世間で思われているほど、肉親の情を持たぬ暴れん坊だったとは言い切れないところもあるようです。 そして曹丕の『典論』には、こんな一節があります。「譚長而恵(袁譚は年長で、恵み深い性格だ)」。曹丕は元々曹操の後継者の立場ではなく、兄・曹昂(そうこう)は戦死し、優秀だった弟・曹沖(そうちゅう)は夭逝(ようせい)し、最終的には弟の曹植(そうしょく・そうち)と激しく争い、ようやく後継者の地位を手に入れました。そうであればこそ、弟との後継者争いに振り回された袁譚に対して、他人には分からぬ共感を覚えていたのかも知れないですね。(がんもさんのサイトにて、2002.1) |
| Q.005 | 李儒は実在の人物? |
| A.005 | 李儒は、演義では董卓の懐刀(ふところがたな)として数々の陰謀を巡らしますが、正史『三国志』にはその名が見えません。では全く架空の人物であるかというとそうではなく、『後漢書・皇后紀』に登場しています。曰く、 山東に義兵大いに起(た)ち、董卓の乱を討つ。卓乃(すなは)ち弘農王を閣上に置き、郎中令(ろうちゅうれい)李儒をして酖(ちん)を進めしめて曰く「此の薬を服(の)み、以て悪を辟(のぞ)くべし」。王曰く「我疾(やまひ)無し、是(こ)れ我を殺さんと欲するのみ!」飲むを肯(がへんぜ)んぜず、云々。 (訳)関東の諸侯が反董卓連合を結成した頃のこと、董卓は弘農王(少帝)を楼閣の上に連れて行った。そして郎中令の李儒に、「こ の薬を飲めば、病気が治りますぞ」と言って、鴆(ちん)という鳥の羽をひたした毒酒を弘農王にすすめさせた。弘農王は毒酒だと悟り、「私は病気などではない。これは私を殺そうとするのだな!」と言って、飲もうとしなかった、云々。 痛々しいセリフをはいた弘農王は、結局、董卓の手にかかって殺されてしまいます。李儒の登場はこの一箇所のみですが、ここから董卓の悪事をサポートする謀臣として脚色されました。ちなみに郎中令とは光禄勲(こうろくくん)の事で、宮中にて皇帝の顧問や侍従などを統率する高官です。尚、『三国志演義』の前身とも言える元代の『三国志平話』や、雑劇『錦雲堂暗定連環計雑劇』でも、すでに李儒は董卓の参謀役として登場しています。(がんもさんのサイトにて、2002.1) |
| Q.006 | 張飛の字は益徳か翼徳か? |
| A.006 | 張飛の字(あざな)は、小説によっては「益徳」であったり、また「翼徳」であったりします。正史『三国志・蜀書・張飛伝』では「益徳」とされているので、こちらが正解です。では、なぜ「益」が「翼」になったのでしょう?
古代中国語の発音を調べる為の、最も基本的な工具書である宋代の『広韻』では、「益」と「翼」は異なる発音です。しかし元代の『中原音韻』という書では、同音とされています。ちなみに現代の中国語でも、「益」と「翼」はどちらも「yi(イー)」で同音です。古代の文献では、同音による誤字や当て字が頻繁なので、張飛の字もその例の一つでしょう。 三国志の物語は、もともと盛り場の講談などで行われたものを母体としています。講釈師たちが上演用の簡単な台本などを書くときに「益」と「翼」を誤って記してしまい、そのまま定着していったもののようです。数々の三国志の講談はやがて元代の『三国志平話』、そして『三国志演義』という形に集大成されますが、『三国志平話』の時点ですでに張飛の字は「翼徳」となっています。また、『三国志演義』のごく早期の版本である明代の「嘉靖(かせい)本」は「翼徳」としていますが、最も広く普及した清代の「毛宗崗(もうそうこう)本」では「益徳」になおされています。尚、一説には、張飛の「飛」という字が「翼」という字との連想を強めたのではないか、とも言われています。(がんもさんのサイトにて、2002.1) |
| Q.007 | 周倉って何者? |
| A.007 | 周知の通り、周倉は正史には登場しない人物です。『演義』の前段階とも言える『三国志平話』にその名が見えます。しかし、初登場は諸葛亮の北伐のところであり、関羽との接点はなく、『演義』の周倉像と直接つながりがあるかどうか、定かではありません。ただ、同じく元の時代の関漢卿の『関大王独赴単刀会』という戯曲には、『演義』と同様の周倉が登場するので、ちょうどその頃、様々な周倉伝説が『演義』のような形となって来たようです。 ちなみに後の清代に編まれた『山西通志』という地方の歴史書には、周倉将軍は平陸の人で、はじめ張宝の部将だったが、後に後悔して、臥牛山で関羽と会うと、遂に部下となった」(巻167)とあります。この通りであれば、周倉は実在の人物であった事になりますが、あまりにも『演義』の内容と一致しているので、後世の人が付会した可能性が強いようです。いずれにせよ周倉像は、関羽伝説とも絡(から)み合い、地方劇などを調査すれば、様々な言い伝えがあるものと思われます。 ところで、『演義』に於ける周倉像について、がんもさんが興味深い指摘をしています。曰く、 「いわば、周倉は関羽の野性味の部分だけが分離した化身だったのです」 「周倉が関羽のそばを離れなかったのは、まさに一身一体だったからであり、離れることができなかったのである」 キャラクター論として、なるほどと頷かされるものがありますね。(がんもさんのサイトにて、2002.1) |
| Q.008 | 関羽は偽名? |
| A.008 | 関羽の字(あざな)は雲長ですね。しかし、実はこれは改名した後のもので、もとは「長生」といいました(『三国志・蜀書・関羽伝』)。故郷から出奔しているので、おそらくその時に、名前を変えねばならないような事件に関わったのでしょう。 正史からはそれ以上の事は分からないのですが、民間に伝わる関羽伝説は実に多彩で、改名にまつわる伝承も色々と伝わっています。その中の一つをかいつまんで要約すると、以下のようです。 管(カン)という豆腐売りの老人がいました。彼には子供がありませんでしたが、ある日草むらで泣いている赤ん坊を拾いました。管さん思えらく「天がわしを哀れんで、この子を飛んで寄越して下さったのじゃろう。」やがてその子が勉強をする年頃になると、羽がないのに天上から飛んで来たという事で、名前を「羽」としました。すなわち管羽です。(中略)後に、親族とのもめ事に巻き込まれて役人に追われる身となった管羽は、他郷に逃亡しようとします。しかし城門にはすでに、管羽の容貌を記した手配状が掲げられていました。それを見た管羽は全身汗びっしょりになり、白い顔が火を噴くように真っ赤に火照ってきます。城門の役人に「こいつの顔立ちは手配状そっくりだが、顔色が違うなあ、真っ赤じゃないか。おまえ、なんという名だ?」と尋ねられると、管羽はとっさの機転で、城門(関)を指差して「姓は関です」と答えました。それを聞いた役人は「姓が関ならば、この手配状はお前の事ではないな、行け」と言い、かくして“管羽”は“関羽”となり逃れる事が出来ました。
これは、三国志にまつわる民間伝承を採取した『三國外傳』(湖北省群衆芸術館編、江雲・韓致中/主編)に収められている逸話です。この本は確か、日本語訳も出版されている事と思います。この他にも色々な伝説が紹介されております。またこの本以外にも関羽の改名や顔色に関する伝説は、ほとんど無数にあるはずです。(当サイトにて、2002.1) |
| Q.009 | 中国の美女とは? |
| 貂蝉(ちょうせん)、甄(しん)氏、二喬、孫夫人など、幾名かの女性が殺伐とした『演義』の世界に彩りを添えています。しかし残念な事に、彼女たちの具体的な容貌に関する記述は見あたらないようです。それは正史『三国志』も同じで、例えば甄氏なども、曹丕がその美しさに感嘆したという記述があるだけで、どのような容貌であったかは記されていません。そのかわりと言っては何ですが、中国の伝統的な美人観について少々触れてみたいと思います。 まずは「玉肌(ぎょくき)」とか「玉膚(ぎょくふ)」、すなわち「玉のようになめらかで、きめ細やかな肌」というのが基本らしいです(笑) その上で「ほっそり型」と「ふくよか型」の二つのパターンがあるようです。 「ほっそり型」については、古くは「楚の霊王が細い腰の女性を偏愛したため、後宮の女性はみんな痩せようとして餓死する者が相次いだ」(『晏子』『韓非子』他)という話が見えます。すごいですね。時代が下って漢代、麗娟(れいけん)という女性は14歳にして武帝の寵愛を受けたのですが、その姿態は「玉膚柔軟、吹氣勝蘭(肌は玉のようになめらかでやわらかく、息吹は蘭の香りよりもかぐわしい)」だったとか。麗娟が風に舞って飛んでいってしまうのを恐れて、武帝は彼女の衣服の袖を縛り付けて部屋に閉じこめていた、と言いますから、きっとよほど軽かったのでしょう(『漢武洞冥記』)。また、漢の成帝が寵愛した趙飛燕(ちょうひえん)は、体が軽い事から「飛燕」と名づけられたそうです(『漢書・外戚伝下・孝成趙皇后伝』注)。 一方の「ふくよか型」の代表とされるのは楊貴妃でしょうか。正史には体格の記述はないのですが、楊貴妃とほど遠からぬ時代の白居易(はくきょい)が、楊貴妃が避暑地の華清池(いまも長安にて観光地となっています)で入浴しているシーンを描いています。曰く「温泉水滑らかにして凝脂(ぎょうし)を洗う」(『長恨歌(ちょうごんか)』)。「凝脂」というのはかたまった脂(あぶら)のことですが、転じて滑らかできめ細かな白い肌を指します。なので、「温泉の湯が玉となってなめらかな肌を滑り落ちる」といった風情。また、出典は知らないのですが、楊貴妃は100kg以上の巨漢の女性だという話も聞いた事があります(驚) もっとも楊貴妃の肖像画にはふくよかな図とほっそりした図とがあり、真相は薮の中です(笑)ちなみに、上述の趙飛燕の妹・趙合徳もふくよか型の美人だったと伝えられ、やはり湯上がりの時にも水分が肌に残らなかったといいます(『趙飛燕外伝』)。 また、後の清代には『紅楼夢』という長編小説があります。中国ではテレビドラマにもなり、『三国演義』と同様に、ほとんどの人が知っている物語です。主人公は貴族の子弟・賈宝玉(かほうぎょく)で、従姉妹(いとこ)など12人の美女とともに暮らしています。その中の2大ヒロイン「林黛玉(りんたいぎょく)」と「薛宝釵(せつほうさ)」は、前者は病身で痩せており、自分の感性に忠実に生きたいと願う女性、後者はふくよかで伝統的なしきたりを忠実に守れる女性です。主人公はこの二人のどちらと結ばれるかで悩み、結局は悲劇的な結末を迎えるのですが、典型的な両タイプの美人に挟まれるという、贅沢なモチーフだと言えますね(笑) ちなみに、「ふくよかな女性が好まれたのは、子供を産み子孫を増やすという点が大きく関与しているのではないか」というfunkさんの指摘、まことにその通りだと思います。目から鱗が落ちました(笑)(当サイトにて、2002.2) |
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| Q.010 | 孫策は皇帝になれた? |
| A.010 | 呉は孫堅・孫策・孫権の三代にわたって国を築き上げました。脈々と受け継がれた建国の事業は、最終的に孫権が皇帝になる事で完了し、孫権は父・孫堅にも「武烈皇帝」と諡(おくりな)しました。では、実質的に呉の基盤を築いた兄・孫策にはどのような称号が送られたのかと言うと、皇帝ではなく「長沙桓王」でした。孫策はその死後、名義上でも皇帝の待遇は与えられなかったのです。『三国志』の著者・陳寿は、孫権が孫策の子供達に対しても十分な配慮をしておらず、兄・孫策への尊崇が十分ではなかった、といくらか非難を込めた筆致で述べています。 ところで孫策に送られた「桓王」という諡(おくりな)について、以下に少し述べてみましょう。 晋代に、戦国時代・魏の襄王(じょうおう)の墓から『逸周書(いっしゅうしょ)』という古書が発掘されました。『逸周書』は『汲冢周書(きゅうちょうしゅうしょ)』とも呼ばれます。その巻六に「諡法解(しほうかい)」という篇があり、そこでは諡(おくりな)の付け方の基準が述べられています。孫策に送られた「桓」については、「辟土服遠曰桓(土地を辟(ひら)いて遠くの土地まで服従させた人に「桓」の諡を冠する)」と見えます。新進気鋭・創業の君主たる孫策に相応しい称号ですね。 「桓」という字は元来、宿場の目印に立てた木や、墓穴に棺(ひつぎ)を降ろすために立てる木の事でしたが、古代の『詩経(しきょう)』には「桓桓たる武王」という言葉が見え、武勇が備わっている様を形容した用例が見えます。「桓」の諡(おくりな)受けた人物では、春秋五覇の一人・斉の桓公が有名ですね。三国時代では、孫策の他に張飛が桓侯と諡(おくりな)されています。桓公・孫策・張飛と、いずれも攻撃的な覇王・武力のイメージが強い人物ですね。 また『歴代人物諡號封爵索引』(楊震方・水賚佑・編著、上海古籍出版社、1996)という本の付録「明代通用諡法釋義」の「桓」の欄には、「辟土服遠、克敬勤民、辟土兼國(土地を辟(ひら)いて遠くの土地まで服従させた、民のためによく勤めた、他国を兼ね併せた)」とあります。ここから、明代には、武力的な業績のほかに、「民のためによく尽くした」というイメージも「桓」の字に付与されていた事が分かります。(当サイトにて、2002.4) |
| Q.011 | 役人に休暇はあった? |
| A.011 | もちろんありました。古代の役人の休暇は、「洗沐(せんもく)」「休沐(きゅうもく)」と呼ばれました。沐浴(もくよく)するという名目で休暇を下賜(かし)されたためについた名称です。『漢書・萬石君伝』に「毎五日洗沐」とあり、また『漢書・楊敞(ようしょう)伝』に晋の晋灼(しんしゃく)が付した注にも「五日一洗沐」と見える事から、五日に一度の休暇という勤務態勢であった事が分かります。古くは『史記・鄭当時列伝』にも「毎五日洗沐」と見えるので、漢代初期か、或いはそれ以前の秦代からの慣例であった事が分かります。 『三国志・梁習伝』注引『魏略・苛吏伝』に、劉類という者について、「嘉平中、為弘農太守。吏二百餘人、不與休暇、専使為不急(嘉平年間、弘農太守となった。吏(下級の役人)二百人余りに休暇も与えず、もっぱら急ぎでもない用事をさせた)」と見えます。ここから、地方官衙(かんが)、すなわち地方の下級役人にも休日があった事、そして上官の命令によって休日を返上させられる事があった事も分かります。 また、『後漢書・李膺(りよう)伝』には、李膺の監視の目が厳しいのを恐れて、宦官(かんがん)が休沐(休日)にも外出しようとしなかったというくだりがあり、『後漢書・蔡倫(さいりん)伝』にも「休沐(休日)のたびに、蔡倫は門を閉ざして来客を断った」と見えます。ここから、宦官にも「休沐」があった事が分かります。 古代においては、一度出勤すると、休日までは役所に詰めっぱなしでした。『漢書・楊敞伝』には、お金のある役人は休暇を買って外泊できましたが、貧乏だとそれもできず、病気で休暇をとると、その代わりに正規の「休沐」を返上しなければならなかった、と見えます。なかなか世知辛いですね。 ちなみに、沐浴して髪を洗う、という名目での休暇ですが、では実際に五日に一度髪を洗ったのかどうかは、定かではありません。『礼記(らいき)』の「内則篇」は、毎日髪の手入れをするのが理想であるとしていますが、それでは時間がとられすぎてしまうので、父母に洗髪を願う時は、三日に一度程度で妥協する、という旨が見えます。ちなみに、髪は米のとぎ汁などで洗った事が『史記・外戚世家』などに見えます。どれぐらい清潔になったのでしょうね?(笑)(がんもさんのサイト・当サイトにて、2002.4) |
| Q.012 | 三国時代の「仁侠」とは? |
| A.012 | 「侠」というのは、まさしく「おとこだて」「おとこぎ」を表す語です。古くは『韓非子』の「五蠧(ごと)篇」などにも見える語で、義のためには己の人生をも擲(なげう)つ、という熱い気質とその人を指します。男っぽい気性の女性の事を「おきゃん」などと言いましたが、それを漢字で書けば「お侠」というのが当てはまります。もはや死語ですね(^^;)
ちなみに「侠」というあり方は古くから認識されていて、『史記』や『漢書』にも既に「游侠列伝」が立てられています。 正史『三国志』の本文・裴松之注で、「おとこぎがある」「おとこぎがある人物と交わる事を好んだ」などと評されている人物をざっと挙げてみますと、 曹操・王匡・董卓・袁紹・袁術・張バク(「しんにょう」に「貌」)・史渙・夏侯威・李通・典韋・ケイ康(竹林の七賢の一人)・牽秀・劉備・徐庶・呉班・孫権・凌(の「さんずい」)操・甘寧 だとか(笑) この他にも、魏で虎士として抜擢された者たちは許チョの「侠客」だったとか、身辺に危険を感じた諸葛誕が揚州の「軽侠」を召し抱えたとか、賀斉が悪役人である「軽侠」の斯従を退治したなどの記述が見えます。さらには「王脩伝」に見える高密県の孫氏、「司馬芝伝」に見える劉節なども「侠」の精神であったとか。また「閻温伝」の注には『魏略』の「勇侠伝」なる伝が引かれています。 袁術など、名門・重鎮として名を馳せている人物には、「豪侠」という呼称が使われているようです。一方、「血気にはやった」「無頼漢の」のようなニュアンスで、概して低めの評価として使われているのが「軽侠」という語です。魯粛に関しても、「軽侠を率いて云々」という記述があります。もっとも、凌操なども「軽侠」と評されていますが、その箇所は悪いイメージであるとも思われないので、社会的な地位をともなわない「血気盛ん」な人物も「軽侠」とされているようです。 ちなみに「侠」という字が「おとこぎ」の意味で使われている例は、正史『三国志』の中には32箇所あるようです。やっぱり熱い男たちだったんですね(笑)(当サイトにて、2002.5) |
| Q.013 | 中護軍って何? |
| 中護軍とは、武官の官職の一つです。山東教育出版社『三國志辞典』の「中護軍」の項目を訳出すると、以下のようです。 <中護軍>:官名。曹操が漢の丞相であった時に護軍を置き、建安十二(207)年、中護軍に改めた。第四品、近衛兵をつかさどり、諸将を統率し、武官の選出(人事)をつかさどり、中領軍の下に属する。資質と職歴(キャリア)に深い(優れる)者は護軍将軍となり、浅い(優れぬ)者は中護軍となる。蜀は中護軍を一人、ほかに前、後、左、右(の護軍)をそれぞれ一人ずつ置き、また護軍、行護軍の名もあった。呉は中、左、右護軍をそれぞれ一人ずつ置き、また護軍官の名もあった。 ちなみに上司たる中領軍は、三品に該当します。上記だと「資質と職歴に優れぬものは」とあるのが気にはなりますが(笑)、正史『三国志』で、中護軍の職にあった人物を検索してみますと、めぼしいところでは 曹洪、司馬望、賈充、司馬炎、韓浩、夏侯玄、蒋済、陳羣、趙雲、費イ、周瑜 等がおります。なかなか錚々(そうそう)たるメンツですね。(当サイトにて、2002.6) |
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| Q.014 | 張飛ってどんな顔? |
張飛の容貌は『演義』では「身長八尺、豹頭環眼、燕頷虎鬚(身のたけ八尺、豹のような頭にどんぐりまなこ、燕のようなおとがい(顎)に虎ひげをたくわえている)」といった具合に描写されています。「豹のような頭」というのは、「太くて肉が隆起していた首」といったところでしょうか。この張飛像は、三国志ファンなら関羽の美髯(びせん)とともに周知の事ですね。 ところがこれは物語の中での事であって、実は陳寿の正史『三国志』には、張飛の容貌に関する記述は見当たりません。張飛のこの容貌は、『後漢書』班超伝に見える「燕頷虎頸(燕のようなおとがいに虎のような首)」という言い回しがもとになっています。班超は、『漢書』の著者・班固の弟で、言わずと知れた後漢の名将、漢王朝の目を西域へと開かせた人物です。ここから、「燕頷虎頸」は非凡な豪傑の顔立ち、そして将来出世する人相という事に定着してゆきました。 具体的にどのような顔や首であったかよりも、むしろそのイメージが大切だったようです。『水滸伝』の林沖も、「豹のような頭、ドングリまなこ、燕の頷(おとがい)、虎の鬚(ひげ)」と描かれ、おまけに「身の丈八尺」というのまで『演義』の張飛と同じです。元〜明代にかけての語り物(講談)で、勇猛な武官に対する描写としてよく使われた言い回しだと想像されます。 では、張飛の容貌のイメージとしてはいつ頃から定着したのかというと、唐代の詩人・李商隠(りしょういん)の「驕児(きょうじ)の詩(やんちゃぼうずの詩)」という作品中に、子供たちが来客のヒゲを見て「張飛のヒゲのようだ」と笑ったという一節があります。ここから、唐代には「張飛=虎鬚」というイメージが定着していた事が分かります。『演義』の前身とも言える元代の『三国志平話』にも既に「豹頭環眼、燕頷虎鬚」と見えます。 ちなみに明代の書物に『麻衣相法』(『人相編』ともいう)というものがあります。人相を見る術に関しての書で、明・清代に広く流行し、江戸時代の日本にも流入してもてはやされました。「燕頷虎鬚」については班超を例に挙げて「燕頷虎頭は将軍・宰相の位に登る男子の相だ」とあります。また、「豹頭環眼」の項には張飛が例に挙げられており、そのイメージが定着していた事が分かります。(2002.7当サイトにて) |
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| Q.015 | 三国時代の囲碁とは? |
| 囲碁は古代から伝わる遊戯の一つで、三国時代にもさかんになされました。士人階級の教養ある遊戯であるとともに、賭博(とばく)としても大いに流行していました。漢代の棋局(碁盤)は、古代から伝わる縦横17道289路のもので、三国時代の英雄たちもその形式の碁盤で打ちました。碁石の数は白黒各々150個ずつであわせて300個であった事が、魏の邯鄲淳(かんたんじゅん)が著した『藝経』に見えます。碁盤の形式はその後、若干変化して、南北朝から隋・唐にかけて、現在同様の19道361路に増えました。 陳寿の『三国志』にも囲碁にまつわる逸話は色々と拾われています。 魏の王粲(おうさん)が、対局中に滅茶苦茶になってしまった碁盤を、一つもあやまたずにもとに戻して見せた話や(『三国志』魏書・王粲伝)、多忙な軍務の中でも、光禄大夫の来敏と平然と碁を打っていた蜀の費イ(『三国志』蜀書・費イ伝)、孫策と碁を打ちながら軍務を論じた呉の呂範(『三国志』呉書・呂範伝注引『江表伝』)、それに孔融が逮捕される時に、彼の二人の子供たちは碁を打って遊んでいた話が見えます(『三国志』魏書・崔エン伝注引『魏氏春秋』)。また、呉の厳武は並ぶ者なき囲碁の名手であったといい(『三国志』呉書・趙達伝注引『呉録』)、竹林の七賢の一人・阮籍(げんせき)は母を亡くした時にも囲碁をやめず(『晋書』阮籍伝)、『捜神記』には管輅が寿命のつきかけた若者を助けてやる際、生と死を司(つかさど)る北斗と南斗の神が碁を打っていた逸話が見えます(『捜神記』二十巻本・巻三)。 やや時代がくだった南北朝時代にも賭博としての囲碁の流行はやまず、東晋の元老・王導や、謝安なども囲碁の名手として有名でした。南朝・宋の羊玄保(ようげんぽ)は、文帝との囲碁の勝負に勝ち、宜城太守のポストをせしめたほどで(『南史』羊玄保伝)、同じく南朝・梁の武帝にいたっては自らの手になる『碁法』という書があるほどです。 かくも多くの事例がある事からも、囲碁の流行ぶりが伺われますが、それを好ましく思わないむきもありました。『三国志』呉書・韋曜伝には、呉の太子・孫和が韋曜に書かせた博打(ばくち)を非難する長大な文章が見えます。その文章は『博奕論』と呼ばれ、文学のアンソロジーとして梁代に編まれた『文選(もんぜん)』の巻五十二にもおさめられています。 ところで、甘興覇の甥さんのサイトにて、呉の孫策と呂範の打った棋譜について話題になりました。 こちら (http://www1.odn.ne.jp/~assembly/go_meikyoku.html) 当時はまだ17道の碁盤だったはずなので、残念ながらこの棋譜は、孫策と呂範の碁を忠実に再現しているものとは言えません。とは言うものの、棋譜を眺めていると、なんだか二人が軍談を交わしながら、ぱちりと石を置く音が聞こえて来そうな気がしますね(笑)(甘興覇の甥さんのサイトにて、2002.7) |
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| もう少しくわしい話はこちらへ→「随想三国志<三国時代の囲碁について>」 |