2009.8.9 更新
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Music(音楽)


Classic 勝手に思い入れ


サン=サーンス

SAINT-SAËNS
(1835-1921)

~形式に何を見るか~


 サン=サーンスの手になる5曲のピアノ協奏曲がある。第2番と第5番が比較的知られているが、それでも『動物の謝肉祭』や『交響曲第3番(オルガン付き)』に比べれば知名度ははるかに劣る。安定した構成、ときに機械的とすら言える旋律を多用するところが、概して保守的で、見るべきところに乏しい、と評されるゆえんである。

 保守的と言って片づけてしまいたくなる要素は確かにふんだんだにあるが、うっかり現代の視点だけから聴いているとはまりこんでしまう陥穽
(かんせい)もある。ピアノ協奏曲第3番第2楽章は、発表当時、和声の多用が奇を衒(てら)いすぎていていると非難されたという。また第4番についても、2楽章からなり、そのそれぞれが2つに分割されうるという「交響曲第3番」とも共通する構成は、サン=サーンス一流の実験でもあった。弟子のフォーレが独自の境域を示したことと相まって、サン=サーンスは硬質な保守派であるという印象が強まっていることもあるが、保守性というベールを纏わされた奥に、音楽化された知性の消し切れぬ残光が仄(ほの)見える。

 サン=サーンス自身は「リンゴの実が実り、自然に落ちるように」作曲したという。彼自身の必然性をもって作曲された曲たちは、彼にとって「自然」でありすぎたために、あるいは形式とアドリブに半ばずつ寄りかかった中途半端なものに感じられるかも知れない。第2番第2楽章のリズミカルさ、第3楽章の勢いなどは、ともすれば奥行きが乏しく、規律を破りきれなかったアドリブのように聞こえるかも知れない。第4番第2楽章の後半、変奏曲風な展開は、自分の見いだした主題の面白さに憑かれてしまった独善と聞こえるかも知れない。第5番第3楽章は、老練な老人の、頂点に達しきらない高揚感と映るかも知れない。

 だが、言い換えれば、実験を試みながらも規律を破りきらないこと、ひとつのモチーフへの執着と体系的な深化への欲求、限りない高まりも可能だったはずの高揚感をも、自らが与えた枠組みの中におさめること、それらこそがサン=サーンスにとって音楽が知性の表明でもあったことの裏側だと言えるだろう。

 さらに言うならば、彼にとっては必然であったその枠組みこそが、サン=サーンスの音楽であったとも言えるかも知れない。彼の音楽は、決して取り乱さない。過剰に興奮もしなければ、極度な難解さを提示する韜晦的な趣味のものでもない。モーツァルトのようなア・プリオリとも言える均衡の美の世界でもなければ、ショパンのような昇華された感情の結晶でもない。第5番第2楽章「エジプト風」のように標題を付され、イメージを前面に押し出したものもあるが、それでも規
(のり)を越えきらずに、常に枠組みそのものであり続けたところに、サン=サーンスが残した一連のピアノ協奏曲の、結果としては頑なとも言える一貫性がある。

 ピアノ協奏曲第3番第1楽章のなかば、不吉なさざ波のような弦楽器に誘われて、最初は一足づつ踏みとどまるように、そしてそれから最大限に抑制されながらも次第に激しさを増していくピアノの響きは、激情のさなかにあっても自己を見失うことのできぬ知性の足音に聞こえる。その足音の高まりは、決して取り乱すことがないままに、激情の末にたどりつくのと同じ感情の高みをも示しえている。過剰なまでに抑制されながらも一足ずつ上りつめてゆくその足取りは、高貴と呼んでよいであろう。涙を流さずに感動させるサン=サーンスの音楽の真髄の一端である。

 中村紘子氏は、「ツェルニーを弾きこなす技術があれば、サン=サーンスは弾ける」と言う。しかし、ツェルニーを弾くつもりで弾いたときにそこに現れるのは、形骸としての単なる枠組みにすぎない。かつて、2台ピアノ用に編曲された、ピアノ協奏曲の第2番第3楽章と、第5番第3楽章を弾いたことがある。確かに、ショパンのように一音ずつがかけがえのない意味を持つ音楽ではない。しかし、伴奏を演奏してくれる友人と何度も曲を合わせる中で、完全な枠組みとしての音の連なりが、ある時をさかいにして有機的な構造に感じられてくるのに出会った。閉ざされた枠組みの中に垣間見たサン=サーンスの音楽性、それは私にとっては、目を閉じたときに瞼のうちに広がる無限の可能性のような知的な興奮であった。

(2000.12.2)



《サン=サーンス これがお勧め!》


ピアノ協奏曲第2番 わずか17日で作曲したと伝えられるだけあり、どの楽章にもある種の緊迫感が漂っている。ピアノのカデンツァから始まる第1楽章は、陰鬱ともいえるほの暗い叙情を感じさせる。ピアノが技巧的なのに対して、オーケストラは相づちをうつ程度。第3楽章は躍動的で、リストが評価したというのも頷ける。


ピアノ協奏曲第3番 第2番、第4番、第5番に比べるとマイナーで、現在ではほとんど演奏されておらず、私も最初は全然興味をひかれなかった。のだが、ある日突然、第1楽章中間部、アニマートのピアノの旋律が耳に残ると、その高貴な精神性にほとんど感動を覚えた。その中間部については、何人もの知人が、やはり「ある時突然、その意味が分かった!」と言っていたのを覚えている。不思議なことだが、そういう曲なのだ。第2楽章の過剰なまでの和声は賛否両論だが、その後の第3楽章のロンドは、うってかわって華やかで躍動的だ。


ピアノ協奏曲第4番 二つの楽章からなり、そのそれぞれがさらに二つの部分に分かれている。第2楽章の後半では簡潔な主題が堂々と変奏されるが、その形式と叙情のバランスは、いかにもサン=サーンス的であると言えるだろう。ちなみに主題を循環させる手法は、後にフランクによって有名になるが、着想としてはサン=サーンスの方が時期が早かったのだ。


ピアノ協奏曲第5番 エジプトでの見聞をもとに作曲され、とりわけ第2楽章がその印象を濃厚に伝える事から「エジプト風」とも呼ばれる。第3楽章の中間部、闇雲(やみくも)に盛り上げるのではなく、どこまでも抑制をきかせつつ、それでいて心の奥底にくさびを打ち込むように深い高まりを覚えさせらる。第3番第1楽章のアニマートの中間部と並んで、第5番第3楽章は、サン=サ-ンスのピアノ協奏曲の真髄だと言えるだろう。


ヴァイオリン協奏曲第3番 3曲のヴァイオリン協奏曲の中で、今日演奏されるのはほとんどこの第3番だけだ。一群のピアノ協奏曲とは些か趣が異なり、情熱的で抑揚に富んだ旋律。いくらか劇的にすぎると思う人もいるかも知れないが、サン=サーンスのロマンチシズムがダイレクトに伝わってくる一曲だ。


交響曲第3番「オルガン付き」 サン・サーンスの代表作と言えば、おそらく『動物の謝肉祭』と並んでこの曲があげられるのだろう。2ヶ月後に亡くなることになるリストに捧げられた曲だ。ピアノ協奏曲第4番等と同じく、2つの楽章からなり、それぞれの楽章がさらに二つの部分に分かれている。第2楽章の後半、堂々たるオルガンの響きは、大聖堂を彷彿とさせるような荘厳さ、壮麗さを感じさせる。


『動物の謝肉祭』 友人とのプライベートな夜会での演奏用に作曲されたもので、原題が「動物学的大幻想曲」だった事からも分かるように、遊び心に富んだ名作だ。もっとも、他の作曲家のフレーズをパロディとして用いている箇所もあり、サン=サーンス自身はこの楽譜の出版を禁止していた。名曲の誉れ高い『白鳥』のみ、サン=サーンスのオリジナルであるという。


ピアノとヴァイオリンのためのソナタ
第1番
サン=サーンスの室内楽曲の傑作に数えられるが、悲しいことに演奏される機会はあまり多くない。マルセル・プルーストはこのソナタを愛好し、『失われた時を求めて』に登場する音楽家・ヴァントゥイユのソナタも、この曲から曲想を得たという。この曲も2つの楽章からなり、それぞれがさらに二つの部分に分かれ、部分的に循環形式を用いている。第2楽章の後半、華やかで気高いヴァイオリンの高音部は、あまりに輝かしい躍動感の彼方に、ともすると悲しみすら垣間見えそうで、忘れられないフレーズ。第2楽章、できるものなら弾いてみたい。どなたかヴァイオリン弾いてください!!(笑)



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