2009.8.9 更新
A Rainy Day トップページに戻る
Essayに戻る
Essay (一言書評)
Ciname (映画)
『至福のとき』 |
南京にて、中国が誇る映画監督の巨匠、張藝謀(チャン・イーモウ)の新作発表会を見に行く機会に恵まれた。友人Sさんが、太極拳仲間の中国人の方からチケットを手配してもらい、その恩恵に与ったもの。南京の東南大学の講堂にて。 張藝謀は、思ったより若い感じで、低い声がしぶくてよかった。張藝謀の隣には、明日封切りの映画『幸福時光(幸せなとき)』の主演に抜擢された董潔(ドン・ジエ)も同席していた。聡明そうで、しっかりした対応のできる少女。試写会の前に会場からの質問の時間がとられたのだが、これがなんと1時間半以上にわたった。日本で言えば、黒澤明にあたるような巨匠なわけだから、直接話をしてみたいのは、まあ当然と言えば当然のことか。 色々な質問にそつなく応える様子は、本心がどうであるか窺い知れぬ部分があるのも含めて、さすがだなと頷かされるものがあった。 中国の発展・愛国主義などを鼓吹し、オリンピック招致がらみの事柄を熱く語るあたりには、政府向けのパフォーマンスの部分もあるのだろう。しかし最近の『一個都不能少』(一人も欠けてはいけない:邦題「あの子をさがして。」)にも中国の現状改善を訴えるメッセージが込められているところからも、あながち政府に向けたアピールというわけでもなさそうだ。 正月映画ということもあり、コメディタッチのいいテンポで物語は進む。主演の趙本山も喜劇系であるため、随所で笑いを盛り込んでいるのだが、そのせいで、観客は完全な「コメディ」として作品を見ようとしてしまい、しんみりした場面でも、何を思ったかげらげらと笑ったりしていた。主人公の少女は目が不自由なのだが、身障者に関しても日本ほど神経質ではなく、面白味としてとらえてしまうところもあり、そういう意味では監督・張藝謀の意図が必ずしも実を結んでいるとは言い難かった。しかしその会場全体の勘違いは、張藝謀本人の談話を聞いた直後の高揚感のせいもあったかも知れず、通常の劇場で見れば、彼らもその哀感を共有するのかも知れない。 映画『幸福時光』のあらすじ: 工場勤めのおじさん(五分狩り頭に汚れたシャツ、不器用そうだが人がよい。「幸福時光」という恋人の憩いの場を作ることを夢想している)が、太ったおばさん(とパンフにも書かれているのがすごい)に恋をする。そのおばさんには、これまた太った息子と目の不自由な娘がいるのだが、目の不自由な少女は邪険にされて自分の居場所がない有様。おじさんは、花束を持ってせっせと太ったおばさんに会いにいくうちに、その少女を不憫に思うようになり、自宅に引き取り、工場の気のいい仲間たちの手を借りつつ、なにかと世話をしてやるようになる。 少女は、自分を捨ててどこかに行ってしまった父親からの手紙を持っていて、それをおじさんに「読んでくれ」と頼む。手紙には、お金がらみの話があるのみで、少女の身を案じる言葉は出てこないまま、手紙は終わっていた。読み終わったおじさんに、少女は「ほかには何も書いていないの? 私のことは書いていない?」 と訊ねる。おじさんは、少女が実父を慕っていては、自分と太ったとおばさんの恋愛に支障があると思ったか、「ああ、書いてないよ、何にも書いてない」とすげなく答えるが、友人に肘でつつかれ、しょげかえっている少女を目の当たりにすると、「いや、書いてあるよ、うん、書いてある」と訂正。少女に「続きを読んで」請われるが、元来口がうまい方ではないおじさんは、もごもごと口ごもってしまい、「うん、続きは……そうだ、明日読んでやるからな」とごまかす。 その夜、おじさんが、しばらく会うことができなかった太ったおばさんに花束を持って行くと、なんとおばさんは、もっと大きな花束をもった新しいお金持ちの恋人と部屋でいい仲に。傷心のおじさんは、のんだくれて街をさまよい、ヤケになって通行人にからんで殴られたりするが、少しばかり酔いが醒める頃、ファーストフードに入って、少女の父親からの手紙を取り出す。そして、その手紙に、作文のように書き足してゆく……翌日、少女の按摩の職場(といっても、少女を元気づけるために、工場の人々が作った架空の高級按摩室なのだが)が、工場の都合で取り壊されてしまう。呆然とするなかで、おじさんは少女と一緒に坐り、前夜書いた手紙を少女に読んで聞かせる。文章を書くことなどなかったであろうおじさんの、訥々とした手紙は、「お父さんは今は仕事の都合ではなれているけれど、いつでもお前のことを心配している。痩せすぎだから、もっと食べて元気にならなければいけない、云々」少女が実の父の言葉として聞き涙を流したその言葉は、おじさんの心が言わせた思いであり、物語はそこで唐突な感じで終わる。(2000.12.26Diaryより) PS. 日本に帰国後、同作をDVDにて見て、驚いた。試写会で見たものと、内容が異なっている。とりわけ、ラストシーン。少女が家出をして、おじさんが交通事故で意識不明、に改変されているのには、激しくたまげた。作品としての余韻のあり方が全く異なってしまう改変だが、試写会等での観衆の反応を見て、社会に対するインパクトを強めるためになされたものであろう。(2006.1.8) |
当HPの文章・写真を転載する際は、
管理人・バルカまでご一報下さい。
![]()
Since 2000.12
トップページに戻る
Essayに戻る