2009.8.9 更新
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Essay (一言書評)
Ciname (映画)



『藍色夏恋』
原題 『藍色大門 Blue Gate Crossing



いわゆる青春映画で、「恋愛」と「同性間の友情」をめぐるという、普遍的なモチーフ。なのだが、くどくもなければ、説教臭もない。たびたび現れる自転車のシーンさながら、ときに颯爽と風を切り、ときにひとつところを揺れるようにぐるぐるとめぐる、爽やかさと切なさの瀟洒(しょうしゃ)なブレンドだ。

画面の明暗によって、字幕がスクリーンの左右の見やすい方に出ているのもよい。という物理的な便宜はともかく、桂綸メイ(金へんに美)扮する主人公の少女、モン・クーロウ。大人なら言葉にして解決しようとする心の動きも、その心の揺れのままに噛みしめているようなシーンが数多かった。黙っているシーンでも、話しているシーンに劣らぬメッセージをスクリーンに感じさせられる好演が印象に残る。

「青春時代」という時期は、言葉にしてしまえば美しかったり、青臭かったりしてしまうけれど、まっただなかの当事者には、爽やかな響きだけではすまされない葛藤の連続だ。けれど、モン・クーロウは、自分の生きているその時期が、過去から未来へとつながる一つの架け橋の時代だ、ということを感じながら、一瞬ごとを生きることのできる少女。だからこそ、ひとつのその時期、そしてその時期の親友や恋人に対する執着すらも、どろどろとした閉塞感を感じさせない。

自分の未来は、それを知りたい人にも、知りたくない人にも、どちらにとっても手探りでたどりよせるしかないものだ。ただ、「現在(いま)」が「未来」への過渡期だと自覚している、言うなれば未来への通気口を感じているがゆえに、画像もストーリーも粘着質なものとはなりえない。自転車で風を切って疾走するシーンは、爽やかさと切なさの隠喩(メタファー)としてまことにふさわしい。

ちなみに主人公の少女の名は「モン・クーロウ」、漢字にすれば「孟克柔」(だったか?)。「克柔」、その名は、弱さを克服する、の寓意。映画冒頭では、親友と並んで目をつむってみても、未来の自分の姿が「何も見えない」と何気なく応えていたモン・クーロウだが、手に入れたいものを、自分の未来の姿を、漠然と瞼(まぶた)のうちに思い描くようになり、そして物語の幕は閉じる。そしてこの映画のよさは、幕が閉じられたその後にも、物語が続いてゆくことだ。「藍色の大きな門」をまさに通りかかっている人、もうはるか昔に通り過ぎ、いまはその「門」を振り返っている人、そのどちらもが、閉じられたスクリーンの彼方に、夏色の想いを馳せることだろう。(2003..8.20 Diaryより)



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