2003.9.26 更新
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Diary
2003.1〜2003.9


2003. 9/26(金) -20:50
サヨナラ打を放った赤星を、星野監督が抱きしめている写真、毎日のように新聞や雑誌で見かける。50を越えた上司が、妻子持ちの部下を抱きしめられる職場っていうのも、そうざらにはなさそうだ。親のような笑顔に抱きしめられている、赤星の子供のような笑顔を見たら、涙が出そうになった。感動した!(古)

懐徳堂記念会編 『中国四大奇書の世界〜『西遊記』『三国志演義』『水滸伝』『金瓶梅』を語る〜』(和泉書院)読了。
2003. 9/19(金) -16:05
中高時代の友人の結婚式に招待された。親しい友人の笑顔は、自分の笑顔。そんな素直な心持ちになれるのも、慶事ならではの副産物だ。挙式・披露宴とも親族の方だけのもので、そこに呼ばれただけでも恐縮なのに、主賓席をあてがわれた。ホテルマンから真っ先に給仕を受けつつ、「をいをい、自分がこの席でいいのか〜」(天使風)と思う一方で、「主賓席なんて人生でこれきりかも。さあ、私のグラスに酒をお注ぎ」(悪魔風)とも思ったりなんかして。

昨日、「レンブラントとレンブラント派」展(上野・国立西洋美術館)を見た。子供の頃からレンブラントに惹かれている。レンブラントというと、肖像画がよく知られるが、今回は聖書や神話を題材にした作品群が、レンブラントの師匠から弟子への流れの中で取り扱われている。必ずしもモチーフの中心物にあたるとは限らない光、しかもその光はランプのゆらめきであったり、暗闇の部屋に窓からさすものであったり。色や形が光を支配せず、光が色彩や形状が描かれるための僕(しもべ)にされていない世界。時に中心ではない一点に光が集約されていることに、レンブラントの見た必然を感じて、引き込まれる。

金子みすゞ 『金子みすゞ童謡集』 (ハルキ文庫)読了。
2003. 9/3(水) -16:10
仕事がらみで伊豆熱川に遠征。(→国内旅行紀行・伊豆熱川 二日連続の半徹。帰宅したら、二日間は廃人のようになった。モウダメダポ。

それにしても、冷夏のしわよせか、ここに来てセミが鳴き狂っている。電灯の明かりに照らされて、夜中も鳴き続けている。昔は魑魅魍魎(ちみもうりょう)が徘徊(はいかい)していた夜という時間が、街の暮らしから失われて久しい。
2003. 8/24(日) -22:05
群馬への温泉旅行から戻ってきた。(→国内旅行紀行・榛名 それと時を同じくして、暑い。昼過ぎに区役所の警報が鳴った。曰く、「光化学スモック注意報ガ、発令サレマシタ」。子供の頃は毎日のように流れていたアナウンスだが、聞いたのは十年ぶり以上のような気がする。それにしても、光化学スモックって一体なんなのだ?よく分からないままに、満喫して育ってしまったが、手遅れではないのか、自分?

小松成美『イチロー・インタビュー 〜Attack the Pinnacle!〜』(新潮社)読了。
2003. 8/20(水) -0:15
先日、台湾映画、「藍色夏恋(原題:藍色大門、Blue Gate Crossing)」を観た。いわゆる青春映画で、「恋愛」と「同性間の友情」をめぐるという、普遍的なモチーフ。なのだが、くどくもなければ、説教臭もない。たびたび現れる自転車のシーンさながら、ときに颯爽と風を切り、ときにひとつところを揺れるようにぐるぐるとめぐる、爽やかさと切なさの瀟洒(しょうしゃ)なブレンドだ。

画面の明暗によって、字幕がスクリーンの左右の見やすい方に出ているのもよい。という物理的な便宜はともかく、桂綸メイ(金へんに美)扮する主人公の少女、モン・クーロウ。大人なら言葉にして解決しようとする心の動きも、その心の揺れのままに噛みしめているようなシーンが数多かった。黙っているシーンでも、話しているシーンに劣らぬメッセージをスクリーンに感じさせられる好演が印象に残る。

「青春時代」という時期は、言葉にしてしまえば美しかったり、青臭かったりしてしまうけれど、まっただなかの当事者には、爽やかな響きだけではすまされない葛藤の連続だ。けれど、モン・クーロウは、自分の生きているその時期が、過去から未来へとつながる一つの架け橋の時代だ、ということを感じながら、一瞬ごとを生きることのできる少女。だからこそ、ひとつのその時期、そしてその時期の親友や恋人に対する執着すらも、どろどろとした閉塞感を感じさせない。

自分の未来は、それを知りたい人にも、知りたくない人にも、どちらにとっても手探りでたどりよせるしかないものだ。ただ、「現在(いま)」が「未来」への過渡期だと自覚している、言うなれば未来への通気口を感じているがゆえに、画像もストーリーも粘着質なものとはなりえない。自転車で風を切って疾走するシーンは、爽やかさと切なさの隠喩(メタファー)としてまことにふさわしい。

ちなみに主人公の少女の名は「モン・クーロウ」、漢字にすれば「孟克柔」(だったか?)。「克柔」、その名は、弱さを克服する、の寓意。映画冒頭では、親友と並んで目をつむってみても、未来の自分の姿が「何も見えない」と何気なく応えていたモン・クーロウだが、手に入れたいものを、自分の未来の姿を、漠然と瞼(まぶた)のうちに思い描くようになり、そして物語の幕は閉じる。そしてこの映画のよさは、幕が閉じられたその後にも、物語が続いてゆくことだ。「藍色の大きな門」をまさに通りかかっている人、もうはるか昔に通り過ぎ、いまはその「門」を振り返っている人、そのどちらもが、閉じられたスクリーンの彼方に、夏色の想いを馳せることだろう。
2003. 8/18(木) -0:40
夏になるたびに想い出させられるフレーズがある。サザンの一節。
「夏の夜に咲く花火が 僕たちをつなぐ最後の絆(きずな)だと誰かが言った」。

先日、昔の恩師宅に招かれて、間近に花火を見た。多くの花火大会がそうであるように、最後(フィナーレ)は、息もつかせぬような垂れ柳(しだれやなぎ)の乱れ打ち。花火は、もちろん大地から夜空にあがってゆくもの。だけど、その最後を飾るのが、幾重(いくえ)にも重なりながら夜空から「舞い降りて」くる垂れ柳(しだれやなぎ)だというのは、いかにも日本人の情緒にふさわしい。ような気がする。夜空の一番の高みに舞い上がり、そこからなだれをうつように舞い降りて来る、壮大な短調の終結(コーダ)

『西遊記(八)〜(十)(訳/中野美代子、岩波文庫)読了。
北方謙三『三国志(十一)〜(十三)(角川春樹事務所)読了。
雑喉潤『三国志と日本人』(講談社現代新書)読了。
狩野直禎『諸葛孔明 〜中国英雄伝〜(新人物往来社)読了。
武光誠 『日本と中国の歴史地図』(ベスト新書)読了。
朱建栄『中国 第三の革命 〜ポスト江沢民時代の読み方〜(中公新書)読了。
山本周五郎『小説 日本婦道記』(新潮文庫)読了。
山際淳司『スローカーブを、もう一球』(角川文庫)読了。
岩波書店辞典編集部編『ことばの道草』(岩波新書)読了。
2003. 5/22(木) -17:25
出先で雨が降った。コンビニで傘を調達。包みに隠れていて模様が分からなかったので、とりあえず黒いのを買った。店を出て開いてみたら、包みで見えなかった部分は柔らかい白色で、まごうかたなき女物。周囲の視線に耐えられず、ささずに持って歩いた。雨とメルヘンに敗れた。無念なり。

岡田英弘 『倭国 〜東アジア世界の中で〜(中公新書)読了。
王勇 『中国史のなかの日本像』(人間選書)読了。
2003. 5/5(月) -18:00
数日前のこと。部屋にこもって作業をしていたら、なんだか「ほ〜う、うっふう〜」という不気味な声がしてくる。ベランダを見てみたら、つがいの鳩が、発泡スチロールの箱に入っている枯れ草を巣にしていた。昔、鳩を飼っていたこともあるし、可愛いとは思うのだが、鳩害にやられたマンションの被害はすさまじく、うちのマンションでも「鳩に餌をやるな」という回覧板が回ってきていたので、かわいそうだけれど駆逐した。のだが、何時間かすると、またもどって来る。枯れ草の上に他のものを置いたりしてみても、たくみに居場所をつくっている。繁殖のためとあって、なかなかにしぶとい。追い払うたびに、こちらを恨めしげに見ていたのだが、今日は姿が見えなくなった。と思ったら、隣の家のベランダから鳴き声が聞こえてきた。楽をしないで、巣は自分でつくりなさい!

こないだ駅で、小さな女の子が母親に手をひかれながら、「今日はパパの誕生日〜♪」と歌っていた。どこのパパかは知らないけれど、きっと幸せなことだろう。誕生日おめでとう!

井上進 『中国出版文化史―書物世界と知の風景―』(名古屋大学出版会)読了。
『西遊記(七)』(訳/中野美代子、岩波文庫)読了。
2003. 4/20(日) -15:00
今年は土曜日も仕事。朝五時起床で家を出るのだが、そんな時間でも通勤客でいっぱいで、バス、電車とも座れないのには驚いた。日本はいったい、どうなっているんだ!? それにしても、明け方の電車では、野菜を詰め込んだでっかいカゴをしょってる行商らしきおばあちゃんをよく見かけるけれど、彼女たちは、どこから来てどこに行くのだろう・・・?

狩野直禎 『「三国志」の世界 孔明と仲達』(清水新書)読了。
2003. 4/11(金) -17:40

ケーブルテレビで、『めぞん一刻』のエンディングテーマの一つを、久々に聴いた。歌詞に曰く、「限りなく、おろかな男になっていきそうで、切なすぎる〜♪」・・・そら、確かに切ない。


先日、ようやく『戦場のピアニスト』を観に行くことができた。
以前、掲示板で話題にのぼった映画中の選曲について。国土をもたないユダヤ人が、やはり国土を失ったポーランドの愛国者・ショパンの曲を弾くことは理解できる。では、ドイツ人が唯一弾いたベートーヴェンの曲が、なぜソナタ「月光」だったのか、ということについて、冒頭部分、主人公・シュピルマンが最初に弾くのがショパンの「ノクターン」、すなわち「夜想曲」だったので、得心がいった。ポーランドの叙情的な「夜想曲」との対(つい)として、ドイツの思索的な「月光」、というコンビネーションが選択されたのだ。本来ならば、映画の中盤で「月光」が流れてくるところで「あっ」と思うという配置なのだが、「月光」が出てくることを事前に知っていたので、その点では感動の順序が逆になってしまった(笑)

ドイツ人将校の前で弾いたショパンの「バラード1番」は、圧巻だ。飢えと寒さ、疲労と恐怖でかじかんで動かぬはずの指。時折わずかに打鍵を誤りながらも (これもリアルといえばリアルだ・・・)、あまりにも激しく打ちつけられるコーダには、息をのんだ。そしてこういう背景で奏でられるショパンがある事を想うと、時代も民族も異なり、ショパンと共有できるものがないはずの我々が、そこにどんな自己表現の意味を見いだせるのだろう、という常からの想いが、ますます強くなった・・・

失った家族への想いが、ストーリーの上では語られることはなかったのも印象的だ。取り返しのつかぬ惨劇への怒りや嘆きは、うかつな言葉には託されず、ひたすらに抑制され続け、そして最後のバラード、そのコーダのただいっときに集約されて爆発した。

いかにも、重い。けれど、 『シンドラーのリスト』と比べればもとより、『ライフ・イズ・ビューティフル』と比べても、見ていて、怯え、疲労することが少なかった。それはきっと、主人公・シュピルマンがピアニストであったそのことによるのだろう。ゲットーからの悲惨な逃亡生活は、もろちん生きのびるための悪夢の選択肢ではあったが、肉体、そして民族としての生死のほかに、芸術家としての生死という二つの軸に支えられている、と思うとき、不気味なまでに根強い力を感じさせられた。シュピルマンは、肉体的にはユダヤ人であり、そしてそれ以上に精神的にはピアニストとしてのアイデンティティーに貫かれていた、という、その二つの軸のあり方が、やはり強く訴えてくるものがあった。

『ライフ・イズ・ビューティフル』も、ユダヤ人としての生死と同時に、家族に対する純粋な情愛、という二つの軸に支えられいた。違いは、『ビューティフル』では自己の外に守り続けるべき何者かが見いだされたが、一方のシュピルマンは、家族すら失い、ただ一つ残された自己の中に貫かれる精神性に殉じた、という点だろう。想像を絶する疲弊(ひへい)の果てに、ナチスの前では弾くことが許されなかったはずのショパンを弾き、そして没我の境域に自らを引き込んだとき、その精神性は、ユダヤ人であることを土台にしながらも、その土台を遙かに凌駕(りょうが)した高みへと到達していた。

もちろん肉体と精神のどちらが尊いかなどというのは、普通に暮らせる者が云々(うんぬん)しても何の意味ももたない議論だ。二律背反に分割することも時にはナンセンスだし、作中でもそうした短絡的な描かれ方はしていない。しかし、そのどちらもおびやかされた状況の中で、貫くべき何かを持った人物がいたということには、恐るべき感動を抱くしかない。原題は「THE PIANIST」のようだが、邦題はその本質をよく伝えてくれていると思う。「ピアニストの戦場」ではなく、どこまでも「戦場のピアニスト」であったのだ。惨劇のまっただなかで奏でられたピアノがあった、奇跡と呼ぶには痛ましすぎる物語。そしてエイドリアン・ブロディの名演であったと思う。

2003. 4/3(木) -14:15
首都高を走っていたら、はるか下方、隅田川の川縁(かわべり)に桜が咲き誇っていた。満開の桜の木を上から見下ろしたのは、はじめてだ。花といえば、ずっと梅が好きだった。けれど、南京にいた頃、桜が綺麗なところがあると聞き、友人と探して歩いたことがあった。何気なく探しはじめてみたが、なかなか見つからない。諦めかかったころ、ようやく、これか、と見つけた桜は、日本の桜とは品種が違うらしく、背丈が少し低く、しかもすでに散ってしまったあとだった。春になれば、桜の花は咲くという。当たり前すぎることに気づくのは、当たり前すぎるその軌跡から、少しはみ出した時なのだ、ということを思った。

ところで。パソコンやる。本も結構読む。ファミコン、プレステ、セガ・サターン。暗いところで作業もする。食生活は不規則だし、姿勢も悪い。そして前日は2時間しか寝てなくて、花粉症でしょぼしょぼしていた・・・けれど、「ヨ」の字がどっちを向いているか、破竹の勢いで極小の果てまで見えて、視力は1.5を維持していた。視力は遺伝だというが、まさしく・・・っていうか、これってまさか、もう老眼なのか? 

北方謙三『三国志(十)』読了。
2003. 3/19(水) -0:30
時間がとれる時期に、集中的に歯医者に通う。心臓疾患があるせいで、歯医者の先生はなかなか麻酔を使いたがらない。以前、麻酔無しで、三週間かけて神経を抜いた事があった。今回も神経戦。痛いの痛くないのって。そりゃあ、もちろん痛い。これでも失神できないとすると、一体どんな時に人は失神するんだろう・・・ちなみに今治療中の歯は、たくあん食べてる時に、突然折れた前歯。思えば、わびしい。
2003. 3/14(金) -1:20
とある会議に出席した。暖房がきいていない部屋だったので、狭いけれど窓際の席に座った。さあ、日光よ、背後から僕を照らしてみろ!! と思いつつ、お手元の資料などをみていたのだが、一向に暖かくならない。ので、気づいた。窓はあれども、西向きだった。神は言った、光あれ、と。しかし光は無かった。

なんてどうでもいい事書いていたら、確定申告、明日提出しなきゃいけないのを思い出した。貧しい懐(ふところ)具合をお役人様にさらけ出すべく、計算して書くべし書くべし。しかし、イチローが納める一年分の税金って、僕の生涯分の給料より多いんだなあ・・・ははは、はあ。。。イチローも僕も、笑うしかない。

前野直彬 『風月無尽 ―中国の古典と自然―』読了。
2003. 3/10(月) -0:40
ここ何日か、頭の中で井上陽水の「ワインレッドの心」がエンドレスで流れ続けている。こういう現象ってなんていうんだったっけ・・・助けてくれ〜。

歌といえば、最近CMでよく耳にする宇多田ヒカルの新曲(か?)、タイトルは知らないのだが、「あ〜お〜い〜空が♪」というところ、サビの部分なので当然耳につく。この直前までは比較的抑制をきかせておいて、一拍呼吸をおき、そして同音で頭打ちにされた高音三連発に感情を込めて爆発させる。そして思った。この「あ〜お〜い♪」への高まりへの持って行き方は、往年のメガヒット「It's automatic」のサビの部分、「いっつ おー と」への構造とほとんど相似形だ。この頭打ち高音三連発が、宇多田ヒカルにとって、彼女を精神の高揚へと導き、そしてそれを発露させやすい表現のパターンの一つであるのだろう。これから長く歌手活動をしていたら、どこかでまた、このサビのパターンと出会うことになるかも知れない。

『三国志平話』(訳/二階堂善弘・中川諭、KOEI)読了。
2003. 2/27(月) -23:50
長年通っている床屋、「ダルマ」。技術は荒削りだが、安くて、よけいなことを話しかけてこないのがよい。その店員に、数ヶ月前から一人のおじさんが加わった。推定年齢は53歳。なにより、そのペタッとしたマッシュルームカットが信用できない。その不安を裏付けるかのように、先月はカッパにされた。同じ跌(てつ)を踏まぬよう、今月は珍しく「こ〜してくれ」と注文をつけた。だが、やっぱり先月とほとんど同じカッパになった。よく見ると、前髪の不自然な揃い方といい、後頭部の平たさといい、おじさんのマッシュカットに似ている。縮小再生産・・・。いまにして思えば、床屋なのに「ダルマ」というネーミングっていったい・・・
2003. 2/17(月) -0:05
ふだんは見たこともないのだが、何気なくまわしたチャンネル「あるある大事典」で肩こり解消のストレッチをやっていた。わらにもすがる思いでまねしてみたら、うおおおお、結構効いてるっぽい! これからはもう毎日、風呂あがりにストレッチするために生きることにした。
2003. 2/13(木) -17:15
昨日、秋葉原に行った。オーディオ関連の周辺機器を買って戻ってきたら、レッカー移動される自分の車が、ゆっくりと走り去って行くところだった。ドナドナ。秋葉原ではいつも駐車場に入れ、路駐をしたことがなかったのに、初めての路駐で、一球入魂・地獄行き。わずか43分で3万円。すなわち僕は、毎分697円の罰則金を背負いながら、ラオックスをさまよっていたことになる。秋葉原の交通治安は、しっかりと守られていたのだ。がっくり。
2003. 2/11(火) -22:50
バッティングセンター以外の運動から全く遠ざかっていたのだが、昨日バトミントンをやった。お遊びだったのに、なんとなく全身膨満感。情けない。と、重い体をひきずって、今日は横浜中華街へ。同僚や中国での知り合いと、久々に夕食をして、そのついでに関帝廟を見てきた。中華街には何度か行ったことがあったのだが、関帝廟参観は初めて。きらびやかで荘厳な廟だけど、ギラギラした感じの中国風ではなく、どこか日本風の沈んだ感じもあってよかった。夜のライトアップが控えめだったのがよいのかも。しかし、関羽は半目開きで、人相悪すぎやしないだろうか(笑)
2003. 2/9(日) -13:15
こないだ久々に映画館に行き、『オールド・ルーキー』を観た。肩を壊してマイナーリーグから一度引退した男が、メジャーリーグのマウンドを夢見て、再び野球に挑戦する物語。なのだが、実際には、夢を追う男と、それを支える家族や地域の絆(きずな)を描いた物語。そこはかとなく、いい作品だ。

比較的マメに雰囲気を描出し、目立たないように伏線が張られているのにも好感。試合に勝って喜ぶ子供たちの向こうに、負けたチームの子供たちがふてくされたように歩いて行くのがちゃんと写っているのも、「そうそう」と頷かされるささやかな臨場感があった。また、赤ちゃんのオムツ交換シーンが妙にクローズアップされているな、と思っていたら、その後でメジャー挑戦を悩む主人公が、「メジャーに入れば、家の仕事を君一人にまかせなくてはいけなくなる」というセリフ。なるほど、家事と子育て、そして家を一人で守らねばならない選手の妻の大変さを、その一点に集約して強調しておいたのか、と納得させられた。

石油を掘る装置の動きで、街の景気と雰囲気ををなにげに象徴させている点などもテキサスチックな感じがして「へ〜」と思ったけれど、やはり一番「おっ」と思ったのは、メジャーにあがれない主人公が、くじけかけて、妻のもとに電話をかけたシーンだ。受話器ごしに夫から、「もう家に戻る・・・」と告げられた妻。僕は漠然と「・・・クビになったの?」と妻が応答すると思ったのだが、妻が口にした言葉は「・・・ケガをしたの?」一度肩を壊して野球から引退した夫を持つ妻、ああ、きっと心配はそうなのだろう、とちょっと心動かされた。

1/17 『西遊記(六)』(訳/中野美代子、岩波文庫)読了。
1/19 北方謙三『三国志(九)』(角川春樹事務所)読了。
2003. 1/15(水) -17:40
昨年後半は、時間に追われてネットもできなかった。失われた時を求めて、今年はネット元年の心意気!!☆♯▼♭◇◎!! (新年早々意味不明)。

年末、大掃除で久々に部屋が綺麗になった〜、生きる希望が湧いてきた〜(はあと)。 のも束の間(つかのま)、もう部屋が死んだ(どくろ)。 まさか次はまた、年末の大掃除まで綺麗にならないんじゃないだろうな。いや、そんなはずはない(反語的自問自答)。

狩野直禎『三国時代の戦乱』(新人物往来者)読了。
松浦友久『漢詩 〜美の在りか〜(岩波新書)読了。
矢島裕紀彦『打つ 〜掛布雅之の野球花伝書〜(小学館文庫)
北方謙三『三国志(三)〜(八)』(角川春樹事務所)読了。
『西遊記(一)〜(五)』(訳/小野忍・中野美代子、岩波文庫)読了。



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