2009.9.14 更新
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天涯比隣の如し

Part13.合肥遠征 2001年2月2日〜2001年2月4日


 安徽省の省都・合肥(ごうひ・がっぴ)は、南京からバスで2時間半程度。目と鼻の先の距離にあるその近さが、気楽に旅に誘い出してくれた。

 安徽省というと、一般的には貧しい地域という印象があるように思われるが、なかなかどうして、合肥は活気あふれる街であった。(→近日公開「中国見聞録・安徽省・農村遠征」)
 中国では、春節(旧暦の正月)は一年で最大の祝祭日となり、その前後はテレビから歓楽街まで、国を挙げて様々な催し物が繰り広げられる。(右写真) 合肥の街も、明るい雰囲気に賑わっていた。


新春を言祝(ことほ)ぐイベントで賑わう合肥




逍遙津公園

 合肥は、三国時代には魏(ぎ)と呉(ご)の国境線に近いため、たびたび戦場となり、数多くの故事が伝わっている。魏の曹操(そうそう)が臨んだ教練場跡と伝えられる明教寺(→「三国志紀行・曹操じきじきの教弩台」)もさることながら、魏の名将・張遼(ちょうりょう)がわずか八百の決死隊で、呉の孫権軍十万を撃退した逍遙津(しょぅようしん)の戦い(215年)が名高い。(→「三国志紀行・衆寡敵した!?逍遙津」)

 その古戦場跡は、現在では逍遙津公園として整備されており、家族連れがのどかに散歩を楽しんでいて、平和の象徴・白い鳩もこんなにたくさんいる(笑)

 合肥の市街地の南部、包河公園に包公祠(ほうこうし)がある。

 日本では、名裁判といえば大岡越前のイメージが定着しているように、中国ではそれ以上に強烈なキャラクターとして包公こと包拯(ほうじょう:999-1062)のイメージが鮮烈だ。北宋の人物で、その没後、名裁判官としての逸話が民間伝承や芸能の世界で広く語り継がれ、包公故事という一つのジャンルが形成された。

 親孝行と清廉潔白な官吏のイメージは人々に広く愛され、現代でも台湾発のテレビドラマ 「包青天」(バオチンティエン)が人気を博しており、老若男女、中華圏では誰一人として知らない人はいないほどの知名度を誇る人物だ。

 裁きの場で、ならず者がわめいて言い逃れようとすると、包公の「大胆!(ダーダン:けしからかん!不届きもの!)」の一声がとどろき渡るのが痛快だ。その威厳たるや、そしてその奥に息づく庶民への情愛たるや、虐げられていた古(いにしえ)の庶民ならずとも、快哉を叫びたくなるものがある。

 ちなみに大岡越前の「縛られ地蔵」のエピソードなどは、包公故事を下敷きにしていることは、夙(つと)に知られている。

 



金色(こんじき)に輝く包公祠の包公像



包河公園の夕暮れ

 包公祠の付近には、包公の墓と伝えられる包孝粛公墓園がある。市街地の喧噪からやや離れた広々としたたたずまい。夕陽の映える水辺は、そこに暮らし続ける人々の憩いと、通り過ぎゆく人々の旅情とを赤く染めあげていた。
 市街地の中心近く、長江中路をやや北に入ったあたりに、城隍廟(じょうこうびょう)と呼ばれる商店街がある。城隍廟とは、本来、土地の守護神である城隍神を祀る廟を指すのだが、現在では廟らしきものは伝わっておらず、地元の人々が行き交う賑やかな商店街となっている。


城隍廟付近





城隍廟付近

 食堂、屋台から洋服店まで、様々な店が軒を並べており、ぶらぶらと散歩するだけでも、街の息吹が感じられて楽しい。歓楽街的な賑わいというよりも、生活感があふれているところが特色だ。小さな子供が厚着をして、もふもふの帽子をかぶってお父さんと一緒にお出かけに来ている姿も微笑ましい。(左写真)

 合肥市街の北西部には、後漢の伝説的な名医・華佗(かだ)の像が建っているというので探し回ったのだが、残念ながら辿り着けなかった。小学校の中に像が建っているという話を聞き、怪しまれながらも、近辺の小学校の構内を探して聞き歩いたりもしたのだが、ご縁が無かったようだ。

 秦代から二千二百年に及ぶ歴史を持つ街だけあり、合肥近郊には様々な史跡が残っている。それらを訪れるまたの機会があることを期待しつつ、合肥を後にする最後の日には、雨が降り閑散とした佇(たたず)まいの街を歩いた。

 合肥の冬は、摂氏5℃前後で移ろう。確かに寒い。しかし大都市とは異なる生活感が漂い、それを街のぬくもりと感じたのは、あながち旅人の思い違いではないような気がする。




雨の日の合肥市街



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